喧嘩芸骨法/堀辺正史創始者死去

プラネマン

2016年03月12日 23:12

日本古来の格闘技と言われた骨法の創始者堀辺正史氏が昨年12月26日に亡くなっていたと知り驚きました。


一般的には骨法?堀辺正史氏?となると思いますが僕と同じ位の年の(48歳)格闘技経験者やプロレスファンなら堀辺正史氏を知っていると思います。


骨法に対してはネタになるエピソードがたくさんありますが堀辺正史氏は故人なのでそのことには触れず僕が影響を受けた範囲で書きたいと思います。


日本書紀に書いてある相撲の原点と言われる野見宿禰と当麻蹴速の対戦は激しい打撃戦であったことが記されていますが激しさ故に打撃技を省いたものが相撲の源流になり打撃技は闇に葬られました。


その打撃技が密かに継承されたのが骨法の原点で相撲と兄弟の日本古来の武術だと堀辺正史氏は語っていました。


大伴古麻呂はその技を復元して「徹し」と呼ばれる技を使いそれが堀辺正史氏の先祖に一子相伝で伝わった…ということでした。


堀辺正史氏の父親は東條英機のボディガードをして堀辺正史氏は組技や打撃技と違う間合いの手合いを発見、拳ではない掌を使うファイトスタイルを設立しました。


これらは全て堀辺正史氏が創作した良くいえばファンタジー、悪くいえば妄想ですが堀辺正史氏は格闘技を見る眼力は優れ解説者やライター、劇画作家として活動すれば違った道が開けたと思います。


僕は高校1年の冬通学途中に酔っ払いから暴行を受け暴力や喧嘩とどう対処するかが人生の課題になりました。進学したらその環境で格闘技を習いたいと思いました。


僕が高校を卒業する直前の昭和61年の3月頃に週刊プロレスのインタビューでザ、コブラ選手が高田伸彦選手と対戦するに当たり秘密特訓に行く!と語り翌週に骨法の道場に行ったことを語っていました。


僕はこれだ!と感じるものがありました。僕は卒業と同時に東京の予備校に通う予定でしたが骨法だけは見ておきたくなり東京に住むと週刊プロレスに電話をして骨法の住所を聞き東中野に行きました。


見学をすると堀辺正史氏がメディアに登場した記事のコピーでお金をとっていました。堀辺正史氏は見学者に徹しの体験をしたい人はいるか?と聞きました。僕は怖いもの見たさに手を上げました。


堀辺正史氏から徹しを食らったわけではなく電話帳を2冊もった僕に指導員が軽く掌打を当てると僕は数メートルぶっ飛び見学者の中から驚きの声が上がりました。


名前は忘れましたが掌打を打ったのは後にパンクラスの関係者になった選手でした。その時はさすがは万葉の時代から伝わる格闘技だと感激しましたが後に東京の生活や授業についていかれなくなり十二指腸に潰瘍が出来てから引きこもりになり骨法のことは忘れていきました。


数年後後楽園ホールでボクシングを見た時にある選手の引退式がありました。そこにいた会長に不思議な魅力を感じ後日見学に行きそのジムに入門しました。


ボクシングを始めると先に書いた手合いの間合いで闘うのは無理があることに気がついたこと、パンクラスの関係者になった選手他昭和の時代からと道場生が入れ替わった感じがしたこと等骨法には胡散臭さを感じました。


グレイシー柔術が上陸した頃に骨法は格闘技雑誌で大きく扱われネットが普及する以前だったので強い影響力がありました。


僕は何故グレイシーに徹しを使わないのか?そこに骨法に対する更なる胡散臭さを感じました。しかし専属で練習している内弟子は強いとは思っていました。


堀辺正史氏はプロレスラーと交流がありましたが彼らを納得させられるだけの強さがあったのか?プロレスラーがヨイショするだけの資金力や人脈があったのは気になりますが…


骨法は女人禁制な格闘技でしたが女性にも解放して日本風の色を出し合気道のような護身術系にすれば違った可能性があったような気がしました。


僕は掌打に影響され九州で開催された掌打による公開他流試合に出場したことがあり少なからず堀辺正史氏には影響を受けたことも事実だと言えます。


堀辺正史氏は亡くなった日は普通に生活をして眠るように亡くなっていたそうです。堀辺正史氏のご冥福を祈っています。

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