満州のプリンセス、愛の往復書簡/NHKヒストリア

今週の水曜日10月7日にNHKで放送された歴史秘話ヒストリアを見ました。僕は2年ほど前から歴史に興味を持つようになりヒストリアをよく見ましたが肉体労働の仕事と両立出来ずしばらく遠ざかり久々にヒストリアを見ました。


今回のテーマは「満州のプリンセス、愛の往復書簡」でした。


1、日本が揺れたロイヤルウェディング、


1932年に満州国が建国、清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)の弟、溥傑に日満親善を目的に日本の公家の結婚の話が持ち上がり新婦に嵯峨浩22歳の名前があがりました。


浩は現在のタイ国の在日領事館の場所に住んでいました。当初浩は乗り気ではなかったのですが見合いをしてみると第一印象が違って縁談を受けました。


昭和12年4月に結婚、当時はロイヤルウェディングとして話題になりパレードで沿道の人々の祝福を見て浩は満州と日本の架け橋となると誓うのですが…

溥傑と浩が新婚時代に住んだ家が現在も残り紹介されていました。


2、夢と現実のはざまで

浩と溥傑は旧満州の首都、現在の長春に移りました。しかし浩たちは着くと厳しい管理下に置かれました。

それには関東軍(満州在住の日本軍)の存在があり満州国は国防と治安を日本に委託していました。しかし実際には官僚の人事まで実権を握り浩と溥傑を監視下におきました。


溥傑の兄は浩を関東軍のスパイではないか…と疑い浩が作った食事は溥傑が食べて大丈夫だと確信するまで食べなかったというエピソードがありました。


溥傑も皇帝の弟といえ実権はなく日本で思い描いた暮らしとは違いました。そんな中でも浩と溥傑には女の子が2人授かりました。


昭和20年日本の敗戦が濃厚になり浩と溥傑の環境が一変しました。ソ連軍が満州に近づき浩と娘は陸路を日本へ…溥傑と兄は空路日本に向かいましたが溥傑たちはソ連軍に捕まり浩と娘も中国共産党に捕まりました。


浩と娘は拘束され各地をたらい回しにされますが昭和21年浩が31歳の時に目の前で銃撃戦があり巻き込まれました。

共産党、国民党、関東軍の残党が争い浩の身内は被弾しました。その時の回想を次女が語っていました。

挑戦半島に近い延吉に着いたのは溥傑と別れて1年が過ぎていました。拘置所の壁に自分の爪で名前を書いて生きた証を残そうとしました。後に解放され昭和22年1月に日本に着きました。


浩たちは嵯峨家に身を寄せましたが大陸での苦労で浩は体重が33キロまで落ちました。

7年が過ぎ浩が40歳の昭和29年中国より手紙がきました。差出人は溥傑でした。

1949年に中華人民共和国成立、ソ連より捕虜を受けとりました。溥傑は生活態度が良く手紙を出すことが許されました。


2010年に2人の離ればなれの時代の手紙が見つかりました。その数は55通でした。


昭和32年長女が亡くなりました。
昭和34年中国は戦争犯罪者の釈放、

浩が47歳の時に次女と中国へ…16年ぶりの再会、
昭和49年一緒に日本を訪れる、

昭和62年浩73歳で永眠、溥傑は2人で暮らした稲毛の家を訪れ漢文を残す、
1994年溥傑80歳で亡くなる…


次女がインタビューで浩は時代に振り回されたが溥傑に愛され女としては幸せだったと思う…と語っていたのが印象的でした。


独身の僕にはたどり着けない境地の夫婦の絆が羨ましい物語でした。  


2015年10月10日 Posted by プラネマン at 21:40Comments(0)NHK、ヒストリア

秀吉の愛した京都/聚楽第プロジェクト/NHK 、ヒストリア

昨日4月9日にNHKで放送された歴史番組のヒストリアを見ました。

今回のテーマは秀吉の愛した京都/聚楽第プロジェクトでした。


天下人になった秀吉は戦国の世で荒れた京都の街を大改造しました。

まずは全国の大名の屋敷を京都に造らせ妻子をそこに住ませ実質人質にしました。
このときの名残で京都の町には大名屋敷の地名が残っている場所があるそうです。
京都の復興で自らの権力基盤を作りました。


京都には寺町通りと呼ばれる秀吉によって90以上の寺社が集められた場所があります。

戦国時代に寺社が信者と軍事勢力なった事があったので寺と信者を切り離す目的で寺町通りに寺社を移しました。


京都四条という場所に昔から住んでいる人の家を訪ねてみました。

入り口から端まで40メートル以上ありうなぎの寝床のようでした。


秀吉は南北に道を造り短冊状に区画をつくりました。うなぎの寝床のような区画をつくり区画整理で京都の人口は3万人から10万人に増えました。


秀吉の区画整理で2階建ての建物が増えましたが今までになかった光景でした。
秀吉は京都の街全体、周囲23キロを城壁で囲みました。明や朝鮮半島には城壁で囲まれた街がありそれに習ったようでした。

地震で潰れましたが方広寺というお寺には奈良の大仏を凌ぐ大仏があったそうです。


謎の城、聚楽第

上京区の工事現場から聚楽第の一部が見つかりました。

大阪城築城と同時期に秀吉は京都に聚楽第というお城を築きました。

当時の外国の宣教師の書いた文章によると豪華絢爛で部屋は金色に輝いていたそうです。


筑紫から8年で秀吉の跡取り問題から潰されてしまい資料が少なくどこにあったのか分かっていない…との事です。


平成3年工事現場の地中4メートルから金色の瓦が見つかり聚楽第の一部だと分かりました。

天皇と立場が逆転した事を象徴するために御所の西側に聚楽第を築城したようでした。

掘ったばかりの新しい石ばかりが使われていたようでした。


広島城は聚楽第を参考にして築城したそうですが聚楽第は白い城のようでした。

関ヶ原以前の城には白い城が存在せず姫路城に代表する白い城は家康が江戸に移ってからの城になるそうです。

秀吉はあえて白い城を築城しました。高さ45メートル、5重の屋根で京都市内のどこからでも見えたそうです。CGで再現しました。

秀吉は1585年に関白になりましたが武士で関白になったのは秀吉が初めてでした。

かつて足利将軍が天皇を自宅に招き権威を高めたように秀吉も天皇を聚楽第に招き権威を高めて行きました。

秀吉の京の街に対する思い入れと権力の凄さを感じた番組でした。  


2014年04月10日 Posted by プラネマン at 01:46Comments(0)NHK、ヒストリア

13歳年下と恋におちた元祖キャリアウーマン、荻野吟子、NHK ヒストリア

先週の水曜日11月20日にNHKで放送された歴史番組ヒストリアを見ました。

今回は日本初の女医として名声を成し13歳年下男性と出会い北海道に旅立った荻野吟子特集でした。


荻野吟子は1851年に埼玉県の名主の家に生まれました。

吟子の父親は学問に熱心で儒学者を呼び近所の男の子に教育をしていました。吟子はそこに忍び込み兄の横で勉強するようになりました。


18歳の吟子は裕福な家の好青年と結婚しましたが2年ほどして実家に戻りました。

吟子は下腹部の強烈な痛みを感じて寝込みましたがそれは淋病が原因でした。

夫が遊郭などで貰ってきたものが移りましたが当時は治療法がなく最悪の場合は子供が生めなくなる事もありました。


吟子は東京に行き現東大医学部の最も進んだ西洋医学での治療を受けましたがそこで男性の医者に診察を受ける事に抵抗を感じました。

吟子は同じように性病で悩む女性に会い同じような悩みを抱えていた事を知り自分が医者になろうと決意しました。


明治6年吟子は医者になるため上客、勉強を始めました。吟子は紅一点でモテて教授にも告白されましたが女医になる夢を叶えるために見向きもせず勉強に励みました。


吟子はいざ試験を受けるために願書を出しに行きましたが女医は前例がない…という事で門前払いされました。

吟子は女医が存在した歴史を調べるために古い書物を調べ奈良時代の法律書に女医に関する記述を見つけそれが認められ女医への扉が開かれました。


吟子は難関の試験を突破して東京の本郷に開業しました。そこは歓楽街に近くかつての吟子のように性病で悩む女性が殺到しました。

吟子が女医への道を開いたので吟子が開業してから10年後女医は37人まで増え吟子はその第1号として名声を得ました。


明治23年吟子40歳の時に北海道から志方という27歳の男が訪ねて来ました。志方はクリスチャンで布教のために東京にきて知人の紹介で吟子に会いました。

当時の日本は富国強兵政策で北海道開拓が奨励され志方も北海道開拓を志しいろいろな準備をしていました。

吟子は志方の理想に共感しました。キリスト教の男女平等の精神にも惹かれたようでした。


その頃になると女医の数も増えて吟子も後を他の女医に託せるようになったので本郷にあった医院を閉めて志方と吟子は現在の北海道今金町に旅立ちました。


開拓は困難を極めました。吟子は他に入植した人々の看護に務め志方の姉の子を養子に迎えました。


しかし政府の方針で開拓の進んでいない場所は没収され志方と吟子はそこから去らなければなりませんでした。

その後志方は牧師に吟子は開業医になり再び診療を始めました。

吟子はお金に困っている人には無理に催促せず時として診察料を貰わない事もありました。


吟子55歳の時に夫が先立ちその8年後吟子は63歳でなくなりました。

吟子は女性の自立を説き日曜学校で勉強を教えていました。


平成13年に108歳で亡くなった助産婦は10歳の頃に吟子の日曜学校で学び手に職をつけたそうです。吟子の説いた女性の自立が現代にも影響を与えていた…と解説があり番組が締め括られました。


男性と張り合っていた吟子が13歳年下と恋におちるとは人生分からないと思いましたが人生を切り開いて来た吟子の生き方はあっぱれだと思いました。  


2013年11月23日 Posted by プラネマン at 23:29Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア、龍馬が愛した女、お龍知られざる素顔

昨日11月13日にNHKで放送された歴史番組ヒストリアを見ました。

今回のテーマは「龍馬が愛した女、お龍知られざる素顔」で幕末の志士坂本龍馬の妻お龍の特集でした。


お龍は1841年に京都の医者の娘として生まれました。父親は勤王派で長州藩士等が集まってきて政治に詳しい女性でした。


お龍22歳で父親がなくなりました。母は騙され妹を身売りされました。

お龍は大阪まで行き妹を奪還に行きました。相手が怯んだ隙にお金を返して妹を取り返したエピソードが紹介されました。


三十三間堂近くに龍馬の隠れ家がありお龍の母親が賄いをしていた関係で2人は知り合いました。

2人は名前に同じ龍がつくことで意気投合しました。龍馬が姉に送った手紙には表にはお龍の話、裏には違う話題を書きお龍を大事にしていた事がわかりました。

ある日お龍と龍馬は料亭に行きました。男の遊び場に女性が来るのは珍しい事ですがお龍は楽しんでいたそうです。


1864年に長州、土佐のアジトの池田屋を新撰組が襲う池田屋事件がありました。龍馬の隠れ家も襲われお龍の母が捕まりました。

龍馬はお龍を守るため知り合って3ヶ月後に結婚しました。

龍馬はお龍を伏見寺田屋に預け政治活動をしました。同時は親しい仲間以外は龍馬が結婚している事は秘密でした。


1866年に龍馬の立ち会いのもと薩長同盟を結びました。しかし幕府もこの動きをつかんでいて龍馬は幕府に狙われていました。


伏見奉行所が寺田屋を襲う事件がありました。その時お龍は1階にいて龍馬はボディガードと共に2階にいました。


階段で小競り合いになり龍馬は手をケガしました。龍馬とボディガードは寺田屋から800メートル離れた薩摩屋敷に逃げようとしました。

しかし幕府の検問が厳しく材木置き場の影に隠れました。龍馬は出血が激しく段々と弱っていき切腹を覚悟したほどでした。

お龍は伏見の南端まで逃げましたが龍馬に会いたいと思い薩摩屋敷に行こうとしました。違う場所に行ってしまいましたが薩摩屋敷に駆け込み龍馬が襲われた事を話しました。


その頃龍馬はボディガードに薩摩屋敷に行き援軍を求めるように指示しました。もしもボディガードがいない間に敵に見つかれば殺されてしまう博打でした。


ボディガードが薩摩屋敷に着いた頃先に着いていたお龍が事情を話て出撃準備が出来ていました。もしもお龍が先に薩摩屋敷に行かなければボディガードが着いた時点で話を聞いたりで準備に時間がかかり龍馬は敵に襲われるか出血が酷く命取りになっていた可能性がありました。


お龍のとっさの判断で龍馬の命を救いましたがここで龍馬が死んでいたら日本史は変わっていたと思います。

命を狙われた龍馬は西郷隆盛の計らいで薩摩に身を隠しました。これが日本初の新婚旅行でした。


その後龍馬は京都へお龍は下関の知人の家に預けられました。


1866年に大政奉還が実現、2ヶ月後ボディガードがお龍のもとを訪ねてきて龍馬が暗殺された事を知りました。お龍は黒髪を切り仏前に捧げ泣きました。


明治14年に龍馬の小説が出版、脚光を浴びました。
晩年お龍は再婚して横須賀に住んでいましたがある男が訪ねてきました。彼は龍馬の同僚の息子で久しぶりに龍馬の話をして盛り上がりました。


お龍は1906年に66歳で亡くなりました。墓石にはお龍の意志で龍馬の妻と記されました。


龍馬は京都東山に葬られましたが毎年11月の命日には多くのファンが集まります。しかしお龍は1人横須賀に眠っていました。平成22年1月15日のお龍の命日には龍馬の霊魂を呼び夫婦並んでの供養をして143年ぶりに再会しました。

龍馬を支え続けたお龍の愛が羨ましく感じた番組でした。  


2013年11月14日 Posted by プラネマン at 00:09Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア、今こそ知りたいジョン万次郎

昨日11月6日にNHKで放送された歴史番組ヒストリアを見ました。

今回のテーマはジョン万次郎でした。アメリカでジョン万次郎の半生を描いた作品が児童文学賞を受賞した…と紹介されたところから番組が始まりました。


ジョン万次郎は土佐の漁師の家に生まれました。幼い頃に父親を亡くし貧しい生活をしていましたが発想力が豊かで漁船の網をハンモックのようにして赤ちゃんを寝させ友達と遊んでいました。


1841年に14歳で漁にでましたが嵐に巻き込まれ土佐から750キロ離れた鳥島に流れ着きました。

飲み水にも苦労する無人島でしたがアホウドリを捕まえ飢えをしのいでいました。そんな生活が5ヶ月続いた頃に沖合いに船が現れました。


到着したのはアメリカ人でしたが鬼だと思ったそうです。この頃鯨料が最盛期で燃料に使える鯨油をめぐり乱獲が行われていました。

当時の日本には外国船打ち払い令が出され万次郎たちは日本に帰れずハワイに行きました。

救助から5ヶ月をかけてハワイに到着しましたがホイットフィールド船長にアメリカで教育を受けないか…と言われ鯨漁の基地のニューヘッドフォートに着きました。


万次郎は船長と教会に行きましたが白人でないことで拒否されました。船長は怒りその教会を退会、万次郎を受け入れてくれる教会に行きました。

船長は子供がいなかったので万次郎を自分の子供のように可愛がり万次郎は隣人愛について学んでいきました。


万次郎はアメリカ人の船乗りから非難を受けました。アメリカの船が日本近海で遭難して捕まると牢屋に入れられ虐待される事を知りました。

万次郎自身はよくしてもらっているのに日本のやり方に腹がたち船長に日本を開国させると約束して日本に帰る事にしました。


万次郎は手始めに琉球に行きました。万次郎は当時24歳、アメリカ暮らしが長く日本語はほとんど喋れず役人はアメリカ人だと思っていましたが着ていたはんてんを見て日本人だと理解しました。


万次郎は虐待されませんでしたがいろいろな事を聞かれ薩摩、長崎と同じような事が続き土佐に着いたのは琉球に着いてから一年半後、漂流から11年の月日が流れていました。


万次郎に限らず遭難して外国人に救助された人の手記から海外の事を学んでいました。


万次郎は25歳で土佐藩の英語の教師になりました。
1853年に黒船来航、万次郎はその時は何も出来ませんでしたが幕府はアメリカの情勢が分からず結論が出ないままでした。


幕府の幹部の中からアメリカに詳しい万次郎を登用する声があがりました。

万次郎の意見を聞き幕府は開国に向かっていきました。万次郎は幕臣に登用、通訳にも抜擢されましたがアメリカのスパイと疑いがかけられ通訳は白紙に戻されました。


紆余曲折があったものの日米和親条約が結ばれ万次郎は船長との約束を果たしました。


万次郎はその後東大で英語を教えその中の多くの学生が明治維新の力になりました。


万次郎は明治3年に船長と20年ぶりに再会、子供や孫の代になっても交流が続きました。

太平洋戦争で関係が一時途切れましたがある日アメリカ兵が万次郎の子孫を訪ねてきて交流が再会、現在は5代目になっても交流が続いているそうです。


船長と万次郎の友情、万次郎のバイタリティーの強さなどが感動的な話でした。  


2013年11月07日 Posted by プラネマン at 00:18Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア、宮廷料理人の舞台裏へようこそ、天皇の料理人、秋山徳蔵

昨日10月23日にNHKで放送されたヒストリアという番組を見ました。

今回は「宮廷料理人の舞台裏へようこそ、天皇の料理人秋山徳蔵」で宮中で天皇陛下の食に携わった秋山徳蔵の特集でした。


1888年秋山徳蔵は福井県に生まれました。実家は仕出し料理店を営んでいました。

秋山は陸軍の宿舎に仕出し弁当の配達に行きました。そこには当時としては珍しい西洋料理がありカツレツを食べさせてもらいましたがその味に大感激して西洋料理に興味を持ちました。

二十歳の秋山はシベリア鉄道に乗りフランスパリを目指していました。西洋料理を学ぶためでしたが莫大な借金をしたようでした。


大使館の紹介でホテルの厨房で働きました。そこでカタツムリやザリガニを食材にしていて驚きました。

人間関係の壁に苦しみある日重いスープの入った鍋を1人で持てと言われ中身をひっくり返して鍋を運んだというエピソードが紹介されました。

秋山は巧みな包丁捌きで注目を集めリッツホテルで働くようになりました。


パリに渡り3年目、秋山は大使館に呼ばれました。その頃明治天皇が崩御、大正天皇が即位する事になりました。

当時は帝国主義の時代で各地で植民地化が進みましたが日本は西洋化した一等国であることを示すため大正天皇の即位の晩餐会で相応しいフランス料理を出す必要がありました。

19世紀ナポレオン戦争の後の戦後処理のウィーン会議でフランスは外交官はいらない料理人がいれば良い…として最高のフランス料理でもてなし敗戦国でありながら良い条件で調停出来ました。

秋山が修行したリッツホテルはその流れを引いていました。


集められた宮中料理人たちは和食の専門家ばかりでした。晩餐会では客によるバラツキは許されず秋山は叱咤する日々が続きました。

秋山は献立に悩みました。特にスープが大事でスープの良し悪しでその後の料理の影響が違いました。

秋山はパリで見たザリガニを思い出しました。しかしパリから取り寄せるわけにいかず悩んでいました。

日本には食用のザリガニがいませんでしたが北海道のザリガニは泥臭さがないことを知りました。

軍隊に頼み支笏湖周辺の原生林を中心に3千匹のザリガニを集めました。各地の清流で冷やしながら生き延びさせ2ヶ月かけ晩餐会が行われる京都まで運びました。

大正天皇が晩餐会に出席するために東京をたった直後ザリガニが一匹もいなくなる事件がおきました。ザリガニは明るさを嫌い物陰に隠れていました。


晩餐会当日ザリガニのスープを食べると来賓の人々は一気に和んで行きました。他に羊の肉をくるんだ鳥の袋蒸し、セロリにブイヨンが染み込んだセロリの煮込み、紅白2色で祝賀ムードを盛り上げた富士山アイスがデザートに出ました。


日本が威信をかけた晩餐会は大成功、日本は国際的に認められていきました。そして秋山は50年に渡り宮中料理人として活躍する事になりました。


秋山が26歳で宮中料理人になった時昭和天皇は13歳でした。


秋山は直接天皇陛下と話をする事はなく下がってきたお膳を見て好みや体調を知りました。

太平洋戦争がおきました。宮中も食料不足になりました。昭和天皇は国民と同じ生活をする…と言い秋山は配給の材料を知恵を絞って料理しました。

戦争が終わりマッカーサーが登場しました。天皇陛下も戦争責任に問われる可能性がありました。秋山は接待攻勢に出ました。


秋山は口紅でハゲ頭に落書きされた事もありましたが天皇陛下のために我慢しました。秋山は戦後の物不足の中で食材を集めGHQを接待、いつしか友情に似た感情が芽生え天皇陛下の戦争責任は問われる事はありませんでした。


昭和天皇は40歳を過ぎると食の好みが変わりました。秋山は還暦過ぎて天ぷらを習いました。宮中では生物を出さない決まりでしたが天皇陛下に喜んでもらうために寿司を出しました。秋山は寿司のシャリの形にニンジンを切り寝ながらもニンジンを握りシャリの感覚を養っていました。


1972年に84歳で秋山は引退、天皇陛下に声をかけられた後で退室後男泣きをしたそうです。


秋山は栃木県にある天皇陛下御用達の牧場にも足を運び食材のチェックをしていました。

秋山は1600ページになるフランス料理全集を残しました。帝国ホテルのシェフは秋山の本を買い勉強したそうです。


料理の道を追求して人知れず国を救った秋山徳蔵の人生はあっぱれでした。

歴史の深さを感じた番組でした。  


2013年10月24日 Posted by プラネマン at 00:22Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア、上杉謙信、折れない心

昨日10月16日にNHKで放送された歴史番組ヒストリアを見ました。

今回は義に生きた戦国武将上杉謙信の特集でした。

1、少年時代の決意


上杉謙信は1530年に長尾為影の末っ子として生まれました。7才の時に20才年上の兄が家を継ぎ禅寺に修行に行きました。

上杉謙信13才の時に父親が亡くなりました。葬儀の日に側近は鎧兜を着けていました。対立していた敵対勢力が葬儀の時に攻撃をしかけてきました。

少年上杉謙信は敵対勢力の死者を踏みにじる行為が許せなく義の道を歩むきっかけになりました。


上杉謙信の兄は病弱で指揮がとれず上杉謙信が14才で指揮をとるようになりました。

始めに栃尾城に入りました。やる気満々の部下たちでしたが上杉謙信は戦いを控えるようにしました。部下の中には上杉謙信をナメる者もいましたが上杉謙信は動きませんでした。

4ヶ月後相手が仕掛けてきましたが冬の河を渡り体力が落ちていたところを襲い勝ちました。

敵対勢力を次々と打ち破った上杉謙信に対して19才で兄から家督を譲り受けました


2、謙信負けない方程式


文献を見ると上杉謙信は常に軍勢を8千騎にしていたそうです。

今川義元は桶狭間では2万5千、織田信長は長篠の戦いでは3万、徳川家康は大阪冬の陣では5万の兵を率いてそれを見ると少ない気がしますが…


川中島の戦いでは上杉8千、武田2万の軍勢でした。
武田軍は2派に別れ1派は敵陣を奇襲して逃げてきたところを挟み撃ちにする計画でした。

奇襲をかけたはずの上杉の陣地はもぬけの殻でした。油断していた武田軍に上杉軍が奇襲をかけ武田軍が追い込まれました。

武田軍の別動隊が着いた頃には深入りせずに撤退しました。軍事専門家いわく8千の軍は振り回しやすいという専門用語で表されるように小回りが効く軍勢になるそうです。

兵の数が多ければ命令伝達が伝わり難く少なすぎると命令伝達にスムーズに反応出来るものの攻撃力が弱くなり8千という軍勢は機動力と攻撃力のバランスが整った最強の布陣になるそうです。


上杉軍は車かかりの陣という特種な構えがありました。実際のところは分かっていませんが敵の背後をとるような動きだったと思われます。


通常の合戦では大将が一番後ろに控えて指揮をとりますが上杉謙信は自ら最前線で指揮をとりました。

戦の流れは常に変化して一番後ろにいると正確な流れが分からないから…という理由だそうです。

旗本とは大将の周囲を警護するものでしたが上杉謙信は戦いの状況に応じて旗本も投入していました。通常のセオリーにとらわれない柔軟な考え方をしていました。


上杉謙信は生涯独身を貫きました。恋の話もあったようですが神仏に支える身…という事で耐えたようでした。


3、謙信と信長、友情と裏切り、


桶狭間の戦いで信長が勝った時に謙信は信長に注目しました。

ある日信長から親書が届きました。信長は会った事のない謙信に鷹をくれ…とねだりました。本来なら無礼者と一喝しても良いのですが直ぐに信長に鷹を贈りました。


当時は遠交近攻で遠くと同盟を結び近くを攻める…というパターンが多かったですが信長と謙信は武田信玄という共通の敵がいたことが急接近した理由の1つにありました。

信長は絶対主君であり謙信は神仏に帰依していて2人とも周りと交わるタイプではなかったので親近感があったと思われます。

2人は近況報告をしたり贈り物を贈りました。信長は自分の子供を謙信の養子にしようと思いました。


そんな2人が敵対するようになったのは信長が室町幕府の将軍を京都から追放した事が原因でした。

謙信は私利私欲で戦いをする事が大嫌いでした。

信長は柴田勝家に3万の兵を預け謙信征伐に向かいました。

謙信は北陸の信長の勢力下の七尾城を攻めました、七尾城は信長軍が来る前に落城しました。

柴田勝家は撤退しましたがその背後から上杉軍は攻撃しました。手取川の戦いと呼ばれた戦いは信長軍は雨で鉄砲が打てず1000人以上が討ち死に河を渡って逃げるとき溺れる者もいて謙信軍圧勝でした。


越後に戻った謙信は戦支度をしましたが病に倒れ亡くなりました。誰に対しての出陣か分かりませんでした。

もしも信長征伐の出陣なら後の日本史か変わったかもしれず歴史の非情さや不思議さを感じます。

山形県長井市で謙信の使った観音経が見つかりました。戦いに身をおきながら心の中では平和や安らぎを求めていたのかと思うと謙信に天下をとって欲しかったと思います。

謙信の折れない心に感動した番組でした。  


2013年10月17日 Posted by プラネマン at 05:29Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア、武田信玄、ダメ上司から名将への道

昨日10月9日にNHKで放送された歴史番組ヒストリアを見ました。

今回は戦国武将武田信玄でダメ上司から名将への道というテーマで放送されました。

かつて甲斐の国は武田信玄の父親武田信虎が治めていました。

1541年武田信玄21歳の頃信甲斐の国は飢饉に見舞われていましたが信虎は対策をする事なく隣国と戦をしていて人々の不満が高まっていました。

武田家の側近は信虎を排除して信玄に跡をついで欲しいと頼みました。信玄は信虎が隣国に行っている間に国境を封鎖して信虎が甲斐に戻れないようにしてクーデターが成功しました。


しかし家臣は若い信玄をなめて好き勝手を始め信玄は職務放棄をして引きこもってしまいました。

側近が信玄の過ちを正し間違っていたら斬ってくれ…と直言して信玄は原点に戻りました。

信玄は自らと考えが違っても家臣の考えを受け入れ家臣の功績は小まめに評価して褒美をあげました。

山梨県には信玄の隠し湯と言われる温泉が20ヶ所残っていますが信玄が戦で傷ついた武士の福利厚生のために作ったものでした。


武田信玄は経済力を高めるために隣国に進出しました。特に越後の国には海があり塩や海産物、外国との貿易などぜひ手に入れたい場所でした。


信玄は信濃の国の1/4を手に入れましたが北信濃の武将村上義清に敗れ信濃の武将は反旗をひるがえしました。

信玄の側近に山本勘助という人物がいました。山本勘助は諸国を放浪して戦術や築城について学び占いに秀で呪術的な軍師で信玄の躍進に強力しました。


1553年に信玄は村上義清を倒しさらに北上しました。上杉謙信は祖国防衛のために立ち上がりました。
両軍は川中島で対峙しましたが小競り合いのみで全面衝突にはなりませんでした。本心としては戦国武将は軍事費がかかり犠牲が出るので戦いをしたいわけではなくお互いに無償で済まない…と分かっていたので戦は避けたかった…というのが本心のようでした。


1561年信玄は軍を2つに分け陣地の裏側から奇襲、押されて動いた時点で本軍が挟み撃ちにする作戦をたてました。

信玄軍が奇襲をかけると陣地はもぬけの殻でした。その事を知らない信玄は夜明けと共に合戦場を覆っていた霧が晴れた時に上杉軍がいて度肝を抜かれました。

霧が晴れたら上杉は信玄に襲いかかりました。山本勘助が討ち死にして武田軍が壊滅の危機になった時に信玄軍の別動隊が来て上杉を追い払いました。


近年になって川中島の戦いは信玄の勝利だったのではないか…と言われるようになりました。


信玄は幕府に信濃の国の守護大名を認めさせ大義名分を得ました。上杉側の武将に領土を与えたり褒美を与え引き抜き実質信濃の国を治めていました。


1573年に53歳で信玄は急逝しました。信玄の菩提寺には今でも信玄の墓が残り側近達の墓が寄り添うように囲んでいて信玄がいかに部下に慕われていたのかわかりました。


ダメ上司から国を立て直したあっぱれな生き方をした信玄でした。  


2013年10月10日 Posted by プラネマン at 06:17Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア、戦国のプロフェッショナルたち

昨日9月25日にNHKで放送された歴史番組ヒストリアを見ました。

己の腕で乱世を制した人々の特集でした。

最初は忍者が登場しました。
室町幕府の将軍足利義高は8千の軍で甲賀を攻めました。室町幕府の反逆者が甲賀に逃げ込んだからでした。

幕府軍は突然現れては消えてしまう敵を山奥まで追いかけました。しかし幕府軍は仕掛けられた罠にはまったり毒がついた小刀が飛んで来て撤退しました。


伊賀、甲賀は何故強かったのでしょうか?

赤目四八の滝等伊賀、甲賀は山伏の修行の場として知られて行きました。山伏達は険しい山の中で生きていくため自然と融合して身体能力や自然の中で生きて行く知恵が発達していきました。

伊賀、甲賀は山間にあり僅かな開けた地を巡り小競り合いが続いていました。彼らは山伏の知恵を戦いに生かして行きました。山伏達は自然の中で生きて行くために薬の知識が発達していきその知識が猛毒や麻酔薬等暗殺の技術として発達していきました。

他に狼の糞を混ぜて狼煙を上げると目立つて言われたり鳥の子という鳥の卵かと思う玉が大爆発をして大きな煙や音が出てその隙に逃げる独自の戦闘術が紹介されました。

伊賀、甲賀の忍者は室町幕府軍の陣地に夜襲をかけ将軍に大怪我を負わせその名を知らしめ情報収集や破壊工作のプロとして活躍して行きました。

忍者独自の食べ物も紹介され敵地で長期潜伏する時に食べていたようでした。


1543年に種子島に鉄砲が伝わりました。日本各地で鉄砲作りが始まりました。
近江に国友村という場所があり鍛治職人がたくさんいました。最盛期には500メートル四方に73件の鍛冶屋と500人を超える職人がいたそうです。

国友村の職人に将軍から鉄砲が届けられ同じ物を作るように言われました。

分解した結果ネジの作り方が分からなかったそうです。ネジをしっかり止めないと鉄砲を撃った時に逆流してしまい撃った側に被害が出る恐れがありました。ネジを使わず完全に閉じてしまうとススが溜まって使い物にならなくなりネジの締め方が鉄砲を作る上でキーポイントになりました。

ある日職人が大根を切ろうとしたら超える刀がボロボロでした。大根を中から掘って行くとネジ山のようになり問題をクリアしました。
国友村を支配していたのは浅井氏でしたが織田信長は浅井氏を滅ぼし国友村を手に入れました。徳川家康も国友村の鉄砲を使い大阪城を攻撃しました。国友村は幕府の公認の鉄砲鍛治になり日本のトップブランドになりました。


海のプロフェッショナルとして村上水軍が紹介されました。村上水軍は戦国時代に瀬戸内海を制圧しました。

村上水軍の必勝法には…船に乗るより潮に乗れ…といいいかに潮の流れをつかみ上流に位置するかが勝負のキーポイントでした。

船は小さな物を使え…村上水軍は小早船というスピードが速く小回りが効く船を使っていました。戦況に応じて素早く陣形を整えていました。

ホラ貝や笛で連絡を取り合っていました。

1576年に毛利氏から援軍の依頼を受けた村上水軍は大阪湾に突入、織田信長軍と戦いました。

信長軍は大型船に大勢で乗り込み鉄砲の一斉射撃を武器にしていました。

しかし信長軍の鉄砲は村上水軍には当たらず逆に取り囲まれ敗れました。


戦国時代が終わり江戸時代になると村上水軍の子孫達は朝鮮の船が瀬戸内を通るときの水先案内をするようになりプロフェッショナルの技術は後世に語り継がれて行きました。


城の石垣にもプロフェッショナルな技術が生かされていました。

安土城は7階建ての高層建築でしたが石垣は10メートルありました。

穴太衆という石職人の集団の技術が生かされました。穴太衆の子孫が滋賀県大津市で活躍しています。高速道路の一部に穴太衆の石垣の技術が使われているそうで戦国時代の技術が現代に生きていました。


日本の底力を感じた見応えのある番組でした。  


2013年09月26日 Posted by プラネマン at 00:16Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア、大奥よ永遠なれ…将軍家斉と美女の物語

昨日9月18日にNHKで放送された歴史番組ヒストリアを見ました。

今回のテーマは将軍家斉と大奥についてでした。

11代将軍徳川家斉は15才で将軍になりました。家斉は島津家から姫を迎える事になっていましたが近くの女性に手をつけました。後の大奥を繁栄させた片鱗を見るような出来事でした。
家斉が将軍になって間もなく天明の飢饉がおきました。暴動や米屋の打ち壊しが各地でおきました。幕府は年貢が減り追い打ちをかけるように飢饉対策で財政難になっていきました。

家斉には収拾する政治力はなく老中松平定信が寛政の改革を始めました。まず倹約令を出し大奥が標的になりました。大奥の運営費は現代に直すと100億円を越えていました。家斉も質素な生活を強制されました。

家斉が21才の時に定信を辞任させると大奥を復活させお手つき40人、子供55人授かりました。2人の女性が同じ日に出産する事があり家斉はお盛んでした。家斉の時代にはお大奥には1千人を超える人がいました。

幕府は財政難だったのに家斉はなぜ華やかだったのでしょうか…


大奥を支えた錬金術…

定信を辞任させた時に幕府は100万両の蓄えがありました。子供が生まれると蓄えが半分になりました。家斉も時が経つと定信の言いたい事が分かってきて子供たちに倹約をさせますが効果はありませんでした。
家斉はお金が無ければ作れば良いだろう…という考えでした。


家斉の時代に文政小判を作りました。家康の時代には金85%、銀15%に対して文政小判は金56%、銀44%でした。

ある量の金から小判が1枚出来るとすると銀で薄めれば同じ量の金から小判が2枚〜3枚作れます。銀が大量に混じった文政小判と金の純度が高い旧小判を1対1の同じレートで交換して金の純度の高い古い小判を懐に入れ500万両と定信が倹約をして蓄えた5倍の金額を蓄えました。


定信は風紀の取り締まりや出版統制をして浮世絵の出版禁止や作家弾圧をしました。しかし定信から家斉になると押しつけられていた庶民の文化が花開きました。
庶民の娯楽として歌舞伎は人気が出て葛飾北斎の浮世絵も人気があり現代人が想像する江戸文化は家斉の時代に開花しました。


将軍に愛され過ぎた女…

1806年に家斉は34才になりました。お美代という女性が大奥に来ました。お美代はお寺の娘でしたが美貌で大奥に入りました。
その頃家斉には悩みがありました。それは子供達の結婚問題でした。子供の数が多いので良家や釣り合いがとれる家に全員を縁組みさせるのは無理でした。仕方なしに小さい大名にも縁組みさせ相手の石高を増やして行きました。

家斉が誰よりもお美代を愛しましたがお美代の娘は加賀百万石の前田家に嫁がせました。現在東大にある赤門はお美代の娘のために作られましたが当時としては凄くお金がかかったったそうです。

お美代は男子を生んでいませんがそれなのに影響力があったのは家斉のご加護があっての事でした。お美代の親戚が幕府の役職になるなど家斉に引き立てられお美代は政治にも関わるようになりました。

お美代の実家はお寺であり信心深いお美代のために家斉は都内目白に感応寺を作りました。東京ドーム2つ分の広さで家斉のお美代に対する想いが伝わってきそうでした。

しかし1841年に69才で家斉が亡くなりました。
老中水野忠邦が天保の改革を始めました。倹約、風紀の取り締まりが始まりお美代の周辺は叩かれるようになりました。

家斉の死語9ヶ月で感応寺は浪費政治を理由に取り壊しになりました。お美代は幕府の中から忘れられていきました。

江戸城は幕府から新政府に引き渡されると同時に大奥は廃止になりました。お美代は赤門の近くのお寺の8畳で余生を過ごしました。

最後に家斉がお金を市場に流したために規制を緩和したので経済活動が活発になり庶民がお金の貸し借りをしたり土地の売買をするなどして勉強しよう…という機運が高まり寺小屋が出来て行きました。

西洋の外国人が当時の日本人は身分が低い人でも常に勉強して勤勉さに驚く手記を残していました。この勤勉さが近代化をスムーズにさせたのだと思いました。

家斉がいなければ浮世絵や歌舞伎等の江戸文化が発展しなかったり庶民の勤勉さはなく近代化が成功しなかった可能性があったと思いました。

確かに倹約は大事ですがあんまり倹約、倹約と言っていると文化の発展が無くなってしまうと思いました。
歴史の深みを感じた番組でした。  


2013年09月19日 Posted by プラネマン at 01:14Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア、春日局と将軍家光の絆

昨日7月17日にNHKで放送された歴史番組のヒストリアを見ました。

今回は江戸幕府3代目の将軍徳川家光と家光を生涯にわたり支え続けた春日局の物語でした。

徳川家光は幼い頃から両親と引き離され次期将軍として帝王学を学ばされていました。しかし家光は気が弱く病弱だったのに対して2才年下の国松は活発で出来が良く家臣は国松に貢ぎ物をして家光には見向きもしなくなりました。

それを不憫に思った春日局は食生活から変えようとオリジナルレシピの七色飯を作り家光に食べさせました。春日局の食事は質素で家光が心配して自分の食事を食べろ…と与えようとしたそうです。

春日局の七色飯のおかげで元気になってきた家光は春日局に感謝してふくろうの絵を書きました。羽の細かい部分まで丁寧に書かれた絵は春日局に喜んでもらいたい…という気持ちが伝わってきました。

春日局は家光のために一世一代の勝負に出ました。駿府城にいた家康の下に出向き世継ぎの件で家臣は国松を大事にしているが将来争いになる可能性があり長男が後継ぎをした方が良いと思う…と直談判しました。天下人の家康に直談判する事は場合によっては処罰されますがその背景には春日局の悲しい幼少時代の出来事がありました。


春日局は1579年丹波の国に生まれました。春日局の父親は黒井城を築いた斎藤利三でした。

斎藤利三は武術に優れていましたがそれだけではなく丹波の国から逃げた人に手紙を書き罰を与えないので戻ってこい…と手紙を書きました。現在でもその手紙は残っていて斎藤利三の事を丹波の人達はいかに慕っていたか影響の強さが分かると思います。

斎藤利三は明智光秀の優秀な部下だったため秀吉に晒し首にされ殺されました。謀反人の一族として丹波の国を追われ京都で貧しい暮らしが始まりました。食べる物もない貧しい生活で春日局は17で母方の遠縁に嫁いで行きました。しかし嫁ぎ先が失職して春日局は自給自足のような貧しい暮らしをする事になりました。
家康は斎藤利三を高く評価していてその娘なら優秀だろう…と江戸に呼び後に大奥を築き江戸幕府繁栄の基礎を築きました。


1611年春日局33才家光8才の時に家康は江戸城にやってきました。家光と国松を並ばせ家光を呼びました。国松も後をつけてきましたが家康は国松を一喝して元の場所に戻るように言いました。世継ぎは家光と宣言した瞬間でした。

戦国時代は兄弟でも実力がある方が後継ぎになりました。しかし兄弟や一族の中で争いが絶えませんでした。春日局は幼少から戦国時代の醜さを知っていたので長男が後継ぎになる事を奨励していました。

世の中が落ち着いてくると家が存続して行く事が大事になり春日局の話を聞き一族に争いが起こる事を心配した家康は年長者が世継ぎになる事を決めました。


1623年春日局45才、家光20才の時に家光は将軍になりました。平和な世を作る事に力を入れて武力ではない幕府の制度を作る事に力を入れました。それがキリスト教や海外貿易の禁止の鎖国や参勤交代による外様大名の力を削ぐ制度を作り江戸幕府が250年続く礎を築きました。


春日局は大名同士の婚姻を積極的に仲介しました。仲介を通じて大名を積極的に調べ大名統制をして裏から江戸幕府の繁栄を支えていきました。


1629年春日局51才、家光26才の時に家光は天然痘になり命が危なくなりました。春日局は江戸城内の神社に家光が救われるなら自分は一生薬を飲みません…と熱烈な祈願をしました。願いが通じたのか家光はその後回復しました。

嫡男がいないことを心配した春日局は積極的に動き家光好みの女性を探しだし念願の嫡男が誕生しました。将軍の跡取り候補はたくさんいた方が良いと思い女性を江戸城に入れましたがこれが大奥の元になり徳川家が15代続く礎になりました。


1643年春日局65才、家光40才の時に春日局は病に倒れました。家光が天然痘になった時に生涯薬を飲まない…と誓った春日局は自らが病になっても薬は飲みませんでした。

心配した家光は曜変天目という国宝の器に薬を盛り薬と分からないようにして春日局に飲ませようとしましたが春日局は薬を飲む事はなく65才の生涯を閉じました。


曜変天目はその後春日局の縁のある稲葉家に引き継がれて行きました。その神秘的な美しさは大正時代に15億の値段がついたそうです。

春日局の直筆の手紙が京都の西本願寺に残っていました。奉公人を心配する内容でしたが身分の高い人が奉公人の心配をするのはまれな事で春日局の人柄が分かるエピソードでした。

かつて父斎藤利三の縁で良くしてもらった人が絵描きをしていると知ると狩野派に弟子入りさせその作品が春日局の菩提寺にあるというエピソードも紹介されました。

春日局がいなければ家光が跡取りにならなくて参勤交代などの制度が出来なかったり大奥が存在しないなど江戸幕府の運営も違った形になったと思いました。

よくお局様という言葉を聞くと良いイメージはありませんが春日局と家光の親子を超えた絆の深さや国宝曜変天目の秘話など歴史の深さを感じた番組で見応えがありました。  


2013年07月18日 Posted by プラネマン at 06:32Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア、発掘、真田幸村の激突

昨日7月10日にNHKで放送されたヒストリアという歴史番組を見ました。

今回は大阪の陣に対して徳川家康と戦った真田幸村の特集でした。

1614年10月徳川家康は豊臣家潰しのため20万人の兵で大阪城を攻めました。対する豊臣家は全国の浪人に呼びかけて10万の兵を集めました。その中に関ヶ原の戦いで家康を苦しめた真田幸村の姿がありました。

兵の数では劣る豊臣家ですが秀吉は鉄壁の防衛ラインを築いていました。深さ11メートル、幅30メートルの巨大な掘りや空堀が2キロなど城下町全体12・7キロにおよぶ巨大な掘りが存在していました。

しかし城の南東部は天然の条件を利用した場所があり徳川家康に攻められるかもしれない…と予想した真田幸村は真田丸という要塞を作りました。


大阪城近くの三光神社という場所には抜け穴があり同様な抜け穴が多数存在していて真田幸村が作った抜け穴と思われていました。しかし近年になってこれらの抜け穴は徳川家康が大阪城攻略が上手くいかず苦肉の策で作ったものだとわかりました。


大阪冬の陣では徳川家康20万人は攻め悪ねていました。城の南東部に行くと真田丸が出来ていました。功を焦った一部の武将が真田丸を攻めましたが返り討ちにされました。

徳川家康は力攻め以外の作戦に切り替えるしか戦法はなく抜け穴はその苦肉の策の1つでした。


戦は長期間して徳川家康軍20万人は冬の寒いなかで夜営する事になりました。食料不足は深刻で運搬用の牛や馬を食料にしたり鉄砲や武具に使う箱で暖をとり士気がおちてきました。

秀吉側有利でいましたが徳川軍が打った大砲が淀殿の館に命中、付き添いの人に多数死者が出るアクシデントがありました。

淀殿は恐れてしまい家康に和睦を申し入れ家康は堀を埋めるのを条件に和睦を受け入れました。堀は1ヶ月で埋められ真田丸も取り壊しになりました。


徳川家康は言いがかりをつけて再び15万人の兵で大阪城を攻めました。これが大阪夏の陣でしたが豊臣家は堀が埋められたので野戦しか戦法はなく今回は勝ち目のないと見た全国の浪人は豊臣家につく事はありませんでした。しかし真田幸村は豊臣家につきました。

真田幸村には秘密兵器がありました。全長59センチで火縄銃の半分の大きさで銃弾を火縄銃よりかなり早く詰められる小型の銃がありました。

真田幸村は兵3千人で真一文字になり家康の本陣を攻撃しました。真田幸村の勢いに家康は切腹を覚悟しましたが真田幸村は銃弾を詰めているとき銃を落としてしまい家康を撃つチャンスを逃しました。

真田幸村は討ち死にして大阪城は炎上して淀殿他豊臣家は自害しました。大阪城はその後破壊され地中に埋められて行きました。

真田幸村が使った銃は表に出る事を恐れ封印され明治維新まで存在を隠し通されました。徳川軍の武将たちは真田幸村の遺髪を奪い合い武勇にあやかろうとしたそうです。

大阪城冬の陣に際して真田幸村のもとに徳川家康の使者が現れ豊臣家から寝返れば信濃の国を与える…と言われたそうですが豊臣家についたエピソードが紹介されました。

劣勢の中で諦めない気持ちなど真田幸村は本当のサムライだと思いましたが真田幸村が死して戦国の世が終わった…というのも何か因縁めいているな…と思いました。

信濃の国にもこんな勇敢な武将がいたのは驚きでしたが僕の地元には真田宝物館があり真田幸村の子孫について学べる場所があります。真田幸村の偉大さを知ると今までとは違った気持ちで観賞できると思いました。  


2013年07月11日 Posted by プラネマン at 06:21Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア、戦国最強の鉄砲集団、信長と戦う

昨日7月3日にNHKで放送されたヒストリアという歴史番組を見ました。今回は戦国最強の鉄砲集団、信長と戦う…というタイトルで信長と3度戦い負けなかった鉄砲集団の特集がありました。


比叡山を倒した信長は次なる抵抗勢力石山本願寺を狙いました。1576年5月3日に信長は石山本願寺を攻撃しました。楽勝だと思っていた信長軍ですが鉄砲の一斉射撃を喰らい大苦戦しました。

信長は寝間着のまま飛び出したほど予想外の結果で自ら指揮をとり石山本願寺に向かいました。信長は一時優勢でしたが足を撃たれるアクシデントがありました。

石山本願寺にいた鉄砲集団は紀州に住む鈴木孫一率いる雑賀衆と呼ばれる集団でした。

雑賀衆は50人を25人ずつ2グループに分けていました。同時の鉄砲のネックは弾を混めてから発泡まで時間がかかるという事で2グループが交代で撃つ事で効率良く攻撃が出来きました。長篠の戦いで信長軍が同じような戦法で武田軍を倒したエピソードがありましたが近年になってその話は後から作られた話で実際はそのような事実はなく雑賀衆はレベルが高い戦闘集団だった事が分かりました。

信長は石山本願寺と和睦を結ぶという不本意な結果に終わりました。


雑賀衆が生まれた紀州は山々がそびえ都の勢力が及ばず古くから民衆による政治が行われていました。特に決まった主君は持たず多数決で決める政治が行われていました。

浄土真宗等仏教が盛んで仏への篤い信仰心が雑賀衆を結びつけていたと想像されます。リーダー鈴木孫一が肌身離さず持っていたと言われる血を流している仏画が残っていますが仏が身代わりになったと信じていたようでした。


ポルトガル人が種子島にもたらした鉄砲を雑賀衆が手に入れました。雑賀衆は良港を持ち独自に海外と交流があり鉄砲を増やしたり材料を仕入れていったと思われます。

和歌山県印南町に戦国時代から伝えられる「ケンケン」と呼ばれる踊りが残っています。戦で傷ついた足をかばうために独自の足さばきで行われ手に持つ竹はぼろぼろになりながらも刀を捨てない事を象徴しているようでした。


信長は長篠の戦いで武田軍を破った後で紀州に向かい雑賀衆を滅ぼそうとしました。信長軍兵は10万、鉄砲も多数、雑賀衆は僅か千ほどの兵しかいませんでした。

雑賀衆は川の中に穴を掘り壺を埋めました。信長軍の馬が川に入った時に馬の足が壺に当たり動きが止まった時に雑賀衆は攻撃してきました。動いている相手には鉄砲は当たり難いですが止まった隙に攻撃され信長軍大苦戦しました。信長軍はうかつに攻撃が出来なくなり長期戦になりましたが雑賀衆はゲリラ戦をしかけ抵抗しました。


信長は毛利や上杉等強敵が残っていたので長期戦では背後から攻撃される恐れがあり赦免と言って引き上げたそうです。

しかし信長は主君制や縦社会を好み雑賀衆の横の関係を嫌っていたので再び8万の兵で攻めましたが落とせませんでした。


1585年秀吉は天下統一の障害として雑賀衆を攻めました。10万の兵と全長7キロもの堤防を作り水攻めをして室町時代から100年続いた雑賀衆の歴史が閉じました。秀吉は雑賀衆の武器を取り上げましたがこれが刀狩りの第1歩になりました。


雑賀衆のリーダー鈴木孫一は鉄砲の腕を買われ各地の大名に雇われましたがその後についてはよく分かっておらず各地で鈴木孫一の伝説が残りました。

三重県熊野市では孫一が村を開いたという言い伝えが残り鈴木姓や孫のつく墓が残っています。大阪藤井寺ではお寺を開いたという言い伝えが残っています。

現代になるとゲームで鈴木孫一を知った若い人が鈴木孫一を慕い全国から集まってくると言い番組は終了しました。


信長軍と3度にわたる戦いで負けなかった雑賀衆はあっぱれだと思いました。権力に立ち向かっていった雑賀衆の皆様が安らかに眠る事を祈っています。  


2013年07月04日 Posted by プラネマン at 06:27Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア、明智光秀、悲劇の父娘、反逆の果てに…

昨日NHKで放送された歴史番組ヒストリアを見ました。今回は本能寺の変で織田信長を殺害した明智光秀特集でした。

明智光秀は40歳半ばまでは食事にも苦労するような貧しい暮らしをしていました。妻が女の命の髪を売り生活費に充てた…という話を聞きました。

そんな明智光秀が信長に支えるようになりました。明智光秀は人生経験を生かして朝廷や寺社と交渉を担当して頭角を現してきて秀吉と同じくらいの地位になりました。


明智光秀はその後子宝に恵まれ玉子という後に戦国時代屈指の美女と呼ばれた娘を授かりました。明智光秀は各地の戦で活躍して信長の目にとまるようになり順調に行っているように見えましたが…


明智光秀は信長から比叡山の焼き討ちを命令されました。比叡山のみならず麓の村の焼き討ちを命じられました。明智光秀は罪の無い人を攻めるのを辞めるように説得しましたが信長は聞く耳を持ちませんでした。

この焼き討ちで罪の無い人が千人以上亡くなりました。明智光秀はその後比叡山の麓の坂本という町を修めました。明智光秀は何度も西教寺というお寺を訪れていました。

明智光秀は城を持つ大名になり娘たちも縁談が決まり幸せな一時を過ごしていました。本能寺の変の1年前には信長に感謝の手紙を書いていましたが…


その頃信長は家臣のリストラを始め高齢の大名から領地やポストを取り上げ息子に与えていました。明智光秀は本能寺の変の時67歳、かなり高齢なうえに長男が幼く元服していなかったので息子と一族の未来に不安を感じていました。


明智光秀が13000の兵を率いて出陣の命令を待っていた時に信長は僅かな兵しか率いずに本能寺に入りました。普段は用心深い信長が見せた僅かな油断を明智光秀は好機と思い本能寺の変を起こしました。

後の調査で本能寺は寺というより城で明智光秀の覚悟の凄さが感じられました。

明智光秀は信長の本拠地安土城を制圧、近畿の大名を味方につけ素早く対応しました。

その頃中国地方で毛利家と戦っていた秀吉は毛利家と講和を結び想像以上の速さで姫路城に到着しました。

玉子の嫁ぎ先細川家では秀吉に味方する事になり玉子は離婚され山奥に幽閉されました。明智光秀は細川家の援軍を期待していてもしも天下を取ったら長男と細川家に天下を与えるので兵を出して欲しい…と願いましたが細川家はその条件を飲みませんでした。


明智光秀は豊臣秀吉と天下分け目の戦いをする事になりました。

明智光秀の軍勢は約1万6千人、豊臣秀吉は1万人でしたが秀吉には「大義名分」という切り札がありました。主君信長の仇を討ちたい…信長のために力を貸して欲しい…と言うと協力してくれる大名が増えてきて最終的には秀吉の軍勢は3万人になり明智光秀軍は裏切りが相次ぎ人的には秀吉軍が有利になりました。。

明智光秀は山崎の戦いで秀吉を向かい撃ちますが明智光秀は古墳の上に要塞を築きました。全長128メートル、高さ8メートル、淀川の湿地地帯と天王山という山に囲まれ敵が攻撃してくる範囲は限られるので天然の要塞を手に入れ戦いに望みました。

軍師明智光秀の指揮の元で一進一退の攻防が続きましたが秀吉軍は淀川の湿地地帯を突進してきました。予想外の行動に裏をかかれた明智光秀は劣勢になり勝龍寺城に撤退、その夜明智光秀は城を抜け出して長男がいる坂本城に向かいました。

しかし落武者狩りに会い長男に会う事は出来ませんでした。長男と一族は坂本城で自害しましたが玉子は細川家の主によって許され復縁され6人の子供が授かりました。


本能寺の変から100年後明智軍記という本が出版されしたが明智光秀を非道の謀反人とは描かずに良心的に描いていました。

大津市坂本の西教寺では毎年6月14日に明智光秀の法要が行われ今でも明智光秀を慕う多くの人が法要に参加しているそうです。明智光秀の縁の福知山市では福知山音頭で明智光秀が慕われ市のキャラクターとして明智光秀が採用されました。


僕のイメージでは明智光秀は自分勝手とか極悪非道のイメージがありましたが40代半ばまで貧乏だった…とか遅い子供を授かり家族を大事にした…とかリストラの恐怖で他の家臣より追いつめられていた…と聞きイメージが違い独身、中年の平サラリーマンの僕でも親しみが持てました。


信長も身内に跡を継がせる時に功労者を大切にしていたら違った未来があったかも…と思いましたがそれも歴史の深みだと思いました。

本能寺の変の裏にはリストラの恐怖があり家族愛があったと知り歴史の深さを感じた番組でした。  


2013年06月27日 Posted by プラネマン at 06:36Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア、妻達の会津戦争、反骨の家老西郷頼母

昨日6月19日にNHKで放送された歴史秘話ヒストリアを見ました。

今回は幕末の福島県会津若松市が舞台の「妻達の会津戦争、反骨の家老西郷頼母と家族の悲劇」を見ました。

今回の主人公、西郷頼母はルーツをたどれば徳川家にも繋がる会津藩の名門一族でした。会津戦争で無くなりましたがかつての西郷頼母の屋敷は2400坪で部屋数は38あった豪邸でした。

西郷家は会津藩の人事、会計などを担当、頼母は28才で後を継ぎ6人の子供が授かりました。6人の子供全てに藩を支える心構えや義について学ばせました。

黒船が来航して京都で幕府の要人が暗殺される事件が続きました。幕府は会津藩に京都の守護を命じましたが西郷頼母は会津藩にも危害が加えられる…と大反対でした。

会津藩士は頑固でしたが西郷頼母は特に頑固で西郷頼母は会津藩家老を失職させられました。


新政府により会津藩は朝敵の汚名を着せられました。江戸城解放の後に新政府は会津征伐に出ました。

藩の危機に西郷頼母は復職しました。新政府は戦力的に圧倒的に有利で西郷頼母は新政府と講話しよう…と発言しましたが会津藩の多くの人々は自分たちに非がないので戦おう…という意見が多く西郷頼母の講話を支持する人はいませんでした。


1868年8月23日に新政府軍は会津若松上かに侵入、女性達も戦いに加わりました。老人や子供も城に入り籠城しました。

西郷頼母は藩のピンチに戦う事を決めました。戦いの末期に籠城者は5千人以上になり食料不足は深刻でした。

西郷頼母の妻は食料が他の人々に回るように城に籠城しませんでした。長男のみ城に籠城させ女性達21人は自害しました。西郷頼母の妻34才でした。


戦況が悪化すると新政府と講話しよう…と申し出る人も出ました。西郷頼母は自分が講話の意見を出した時に反対したくせに今さら何を言う!と大反対をしました。西郷頼母は結局城を追われる事になりました。会津戦争で会津藩の犠牲者は3千人以上になりました。

西郷頼母は函館に行き旧幕府軍と合流しますがそこでも生き延びました。


妻や一族が自害したのに生きている事に自責の思いを感じる西郷頼母でしたが共に城を追われた12才だった長男を成長させ血脈を保つために生き延びようと決意しました。


会津藩はすでに解体されたので帰る場所を無くした西郷頼母は長男と各地を転々としました。

伊豆半島静岡県松崎町という場所に西郷頼母が住んでいた…という記録が残っています。そこにあった私塾で歴史や漢学を教えていましたが公立の学校が出来た事で職を解かれました。近代化の波に飲まれ伊豆半島を去って行きました。


西郷頼母50才の時に長男が22才で亡くなりました。その後西郷頼母は放浪生活20年、70才の時に会津に戻り居を構えました。
かつての豪邸とは大違いの粗末な家で生活が厳しくお金をもらう事もありましたが西郷頼母74才で亡くなりました。


西郷頼母は妻と同じ墓標に名前が刻まれました。当時としては夫婦が同じ墓標に名前を刻む…というのは珍しく西郷頼母は妻を心の支えに生きてきたのだと感じ感動的でした。

西郷頼母は会津磐梯山に似た石を見つけ大切に保管していました。郷土愛と家族愛に満ちた志士が戦争に巻き込まれた…というのは気の毒だと思いました。


西郷頼母と自害した21人の女性の冥福を祈ると共に年表では会津戦争と書かれて終わりですが年表に残る出来事には人々のいろいろな思いが詰まっているのだと改めて感じました。  


2013年06月20日 Posted by プラネマン at 06:29Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア、伊勢神宮、日本始まりへの旅

昨日6月5日にNHKで放送された歴史番組ヒストリアを見ました。今回のテーマは今年10月に20年に一度の式年遷宮を迎える伊勢神宮の日本始まりへの旅でした。


まずは伊勢神宮の紹介から番組が始まりました。甲子園球場の1400倍あるといわれる伊勢神宮の内宮の紹介から入りました。五十鈴川の川の流れで手を浄め参拝に入ったといわれます。
社殿はなく石を神として祭った神社や子宝を願う子安神社、樹齢500年を越える木々が繁り神秘的でした。
内宮の祭神の天照大御神は猿田彦神の案内で旅に出て伊勢に住む事に決めました。

外宮は内宮からおよそ五キロ豊受大神を祭っています。外宮の近くに高倉山という場所があり全長18メートルの巨大な石室があり地元の豪族を祭ったと考えられています。


1年365日昔からのやり方で食事を作り朝夕2回食事を天照大神に運ぶのが豊受大神で天照大神の食事の世話をする神様だと言われています。


他に春と秋に太古からの方法で塩が作られ塩の神様や手織りの神様など125の社の総称が伊勢神宮と呼ばれています。


天武天皇が即位した頃白村江の戦いがありました。日本と親しい百済を守るため唐と戦いましたが日本は敗れ百済は消滅しました。

6世紀中頃までは唐の文化を一方的に取り入れていました。天武天皇はそのような流れを変えたいと思っていました。

天武天皇は壬申の乱の時吉野で挙兵しましたが誰も味方してくれず30人ほどしか兵士がいませんでした。天武天皇は伊勢に着くと天照大神を見たそうです。この日以来天武天皇に味方する兵士が増え壬申の乱を制しました。


天武天皇は即位すると唐に依存しない文化を作りたい…と思いました。

今までは歴史を残してはいなかったので日本書記を作ったり漢文一辺倒だったのでひらがなの原型を作ったりしました。

天武天皇は日本人の精神的支柱を打ち立てたいと思いました。狩猟時代から安定した生活になる礎を築いた米に目を向けました。


大阪府和泉市の弥生時代の遺跡から弥生時代の高倉式倉庫跡が見つかりました。ここは米倉であったと思われヒスイが見つかりました。ヒスイは祭事に使われたり信仰の対象でしたが弥生時代の高倉式の倉をベースに神殿を作りました。それが伊勢神宮の社殿の始まりだと言われています。


680年に天武天皇が亡くなりました。後継者争いは激しく天武天皇の奥さんは自ら即位して持統天皇になりました。

神々は敬わなくなれば神力が無くなる…と信じられていたので永遠に若々しいままで神力を発揮して欲しいと古い社の隣に新しい社を作る式年遷宮の原点をつくりました。

持統天皇は即位中に伊勢に旅をした事がありました。式年遷宮に必要なものを定める旅だと言われていました。そして第1回目の式年遷宮が行われ国の繁栄が祈願されました。以後20年に一度毎回欠かさず式年遷宮が行われてきました。式年遷宮では1600もの宝物が全て新しくなり日本文化のタイムカプセルと言われています。


式年遷宮には桧の良木が一万本必要とされています。白い2本線が引かれた桧の木は今から200年後の式年遷宮に使われるために育てられ過去から未来にいろいろなものが引き継がれているのか…と思うと感動的でした。


今回は上手くまとめられなかったように思いますが式年遷宮の歴史や伊勢神宮について放送された素晴らしい番組でした。式年遷宮が盛り上がり日本的な事が見直されて欲しいと思いました。  


2013年06月06日 Posted by プラネマン at 06:26Comments(0)NHK、ヒストリア

NHK ヒストリア 利家とまつの百万石

昨日5月22日にNHKで放送されたヒストリアという歴史番組を見ました。

今回のテーマは加賀百万石を築いた前田利家と妻まつについての特集でした。

時間を間違えて10分ほど遅れ見始めました。兼六園が映っていました。富山県射水市新湊博物館にまつに関しての新資料が寄贈されました。まつの書いた45通の手紙、夫の死語子供に宛てた手紙でした。


秀吉の死後前田利家とまつは息子の後見人になりました。しかし翌年利家は体調を崩しました。

利家は長男に大阪で秀頼を守り3年間大阪から離れないように指示して次男には金沢を守るように指示、秀頼に謀反があった場合は兄弟一致して秀頼を守るように指示がありました。


1599年利家亡くなると徳川家康が台頭してきました。家康は前田家に一旦金沢に帰るように言いました。まつは家康の顔を立ててすぐに戻るように言いました。


その頃家康暗殺計画があり家康は前田家の謀反と加賀征伐を宣言しました。家康はまつが江戸に行けば許す…と言いました。

53才のまつは苦悩しましたがお家に一大事があった時は自分を見殺しにして良い…と子供達に言いました。まつには子供が11人いて娘は9人、45通の手紙は7女千世に当てられた手紙でした。


1600年5月まつは江戸に行きました。その頃関ヶ原の戦いの直前でした。前田家の長男は母親に危害を加えられるのを恐れ徳川家康につく事にしました。

前田家が家康についた事で徳川家康につく大名も増え関ヶ原で家康は勝ちました。
前田本家は守られたものの次男は領土を取り上げられ監禁され4女の豪は夫が八丈島に流され生きて再会する事はありませんでした。7女千世は他家に身を寄せていましたが仮病を使ってでも金沢に戻るように言いました。


家康は江戸に幕府を開きました。しかし家康はまつを解放しませんでした。その頃大阪には秀頼がいたのでまつは人質としてメリットがありました。

まつは次男を助けるように頼みますが約束は破られました。八丈島は度々飢饉に見舞われまつは4女豪の夫に米などを支援しました。
1614年53才で長男が亡くなりました。家康はメリットが無くなったのでまつを解放しました。68才でまつは加賀に戻りました。

まつは2代目将軍秀忠の奥さんが7才年上だった事を例にして姉さん女房も良いものだ…と人生相談にのっていました。


まつは京都でパトロンを失った職人を加賀に呼び文化の礎を築きました。前田家は取り潰しを逃れ徳川家に次ぐ大名として栄華を極めました。


妻として母として戦国乱世を生き抜いたまつの偉大さを知った番組でした。

もし前田家の長男がお家の一大事にはまつを見殺しにして良し…の発言を守り秀吉側につけば日本史は変わっていたかも知れませんが結果的に前田家が繁栄した…というのも歴史の深さだと思いました。


僕は学生の頃に偶然ラジオで元オニャンコクラブの城之内早苗さんの「金沢の雨」という歌を聞き金沢に行った事がありました。


兼六園や趣のある古い町並みや海鮮料理の美味しさや和菓子の美味しさ…香林坊という夜の町も賑やかで良い所でした。その頃はまつについては何も知りませんでしたがまつに思いを馳せて金沢を旅したいな…と思いました。  


2013年05月23日 Posted by プラネマン at 06:06Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア 石田三成 知られざる悪役伝説の真実

昨日5月15日にNHKでヒストリアという歴史番組を見ました。今回のテーマは「石田三成、知られざる悪役伝説の真実でした」


三成と秀吉、運命の出会い
石田三成は1560年北近江で生まれました。北近江は交通の要所で常に戦乱に巻き込まれ荒廃していました。

石田三成の父は足軽と言われる下級武士で戦場では最前線で戦っていました。戦国時代も末期になると鉄砲が戦術として取り入れられ足軽は死ぬ確率が高い割に待遇は恵まれず逆奪をする事もありました。

父は三成を大原観音寺というお寺に預けました。お寺は学問修得の場でもあり三成は計数の才を研いていました。1573年三成14才の時に北近江の再建が始まりました。三成は貧しい家から出世した秀吉に夢や目標を見ていましたが現実は厳しく接点がないまま時間が過ぎて行きました。


秀吉は三成が学んでいたお寺に顔を出した事がありました。当時15才の三成はお茶を出しました。温めのお茶を大きな茶碗にいっぱいに入れてきました。喉が渇いていた秀吉はごくごくと飲み干しました。秀吉はお代わりをしました。三成は2杯目は少し熱めのお茶を入れました。秀吉はさらにお代わりをしましたが3杯目はかなり熱めに入れました。このお茶で秀吉に気に入られ三成は3杯のお茶によって人生を変えてしまいました。


三成は頭角を表してきました。秀吉が三成に500石を差し上げると言った時に三成は断り代わりに葦を刈る権利を認めて欲しいと言いました。三成は葦に税金をかけてそのお金で1万石ほど儲けて豪勢な軍隊を作り秀吉を驚かせました。時代が戦国時代でなければ商人として成功したかもしれないというエピソードでした。


1583年三成24才の時に秀吉は柴田勝家と賤ヶ岳で合戦になりました。当時の模様を描いた屏風に三成は描かれていませんが三成は秀吉の側近として大活躍をしていました。


三成は僧をスパイにして敵陣を調査させました。僧は布教で各地を回っていたので怪しまれずにスパイ活動が出来ました。賤ヶ岳の戦いで秀吉と柴田勝家は膠着状態になりました。秀吉は本隊を違う戦場に向かわせましたが柴田勝家は勝負に出ました。夜になり大規模な軍勢を動かせずに困っていた秀吉でしたが三成は沿道の農民に松明を燃やさせ道を明るくして軍隊を誘導して翌朝には柴田勝家を攻めていました。まさかこんなに速く戻って来るとは思っていなかった柴田勝家軍は敗れてしまい三成の活躍で賤ヶ岳の戦いに勝つ事が出来ました。


賤ヶ岳の戦いから7年後三成31才の時に秀吉は小田原の北条を攻めていました。三成は北条以外の関東の反逆勢力を伐つように命じられました。秀吉は三成に水攻めを命じました。反逆勢力に恐怖を植えつけ今後反逆を起こさないようにするためでした。


三成は埼玉県行田市にある押城を攻めました。押城の周辺には利根川等水は豊富にありますが周りは平野しかなく水攻めには不向きでした。三成は1キロメートルにつき1メートルの標高差を見つけました。15キロなら15センチの標高差が出来るので三成は20キロにおよぶ堤防を作る大工事を始めました。


破格の条件で人を雇い各地から人が集まり押城の関係者の中からも破格の条件につられ来た人もいました。10万人集まり堤防は1週間で完成しました。1か月後小田原が落ちると同じ頃押城も落ちて三成は大活躍をしました。


三成は32才で北近江19万石の大名になりました。秀吉は筑前筑後に33万石の大名になるように言いましたが三成は辞退しました。伊達家や徳川家等三成を良く思わない大名も多く三成は政権の中枢から離れないようにして自らの出世より国造りに尽くしました。

三成は太閤検地を行い実際に田畑を測量して持ち主や生産量を割り出しました。全国統一ルールを作り大名同士の戦いを禁止したり戦乱の世から秩序ある世の中を作り出して行きました。

1598年秀吉が亡くなると家康が反乱を起こしました。大名と縁組みを結んだり自分に従わない大名を攻撃したりしました。そして関ヶ原の合戦で味方の裏切りによって敗れ三成は41才で斬首されました。その3年後に家康は江戸幕府を開きました。


家康は三成の政策を受け継ぎその政策が幕府を支える礎となり平和な世を作りあげて行きました。


その後三成に関するものは全て抹殺され歴史ドラマ等では三成は悪役扱いになりました。

家康側の兵士が三成の拠点の佐和山城に強奪に行きますが粗末な作りで驚いたそうです。自らの私腹を満たす事なく国造りに励んでいました。

三成を語るエピソードで青森県津軽地方の津軽為信という大名が秀吉の怒りに触れ取り壊しのピンチになりました。津軽為信は三成に泣きついてきました。三成は津軽為信が反逆の意思がない事を知ると津軽家の息子の元服の保証人になり津軽家は断絶を逃れました。三成は津軽家を助ける義理はなかったのですが頼まれると嫌とはいえない性格で悪人ではなかったエピソードがありました。


三成には6人の子供がいましたが次男は津軽に逃げました。そこで津軽家に仕え石田から杉山姓に変わりましたが名前に「成」の字を残して生き延びて行きました。


人に良くしておくと自分に還ってくるエピソードだと思いました。平和な時代を設計した石田三成を今でも慕う人達が全国から集まってくるお祭りの様子が最後に放送されあっという間の45分が終了しました。歴史の奥行きの深さを感じた番組でした。  


2013年05月16日 Posted by プラネマン at 06:33Comments(0)NHK、ヒストリア

NHKヒストリア 坂本龍馬暗殺のミステリー

今日5月8日にNHKで放送された歴史番組ヒストリアを見ました。今回のテーマは坂本龍馬暗殺のミステリーに迫る…でした。

今から146年前の1867年11月15日深夜に京都河原町の近江屋で坂本龍馬33才、元相撲取りでボディガードだった山田藤吉19才、中岡慎太郎30才が暗殺された事件がありました。

事件の現場となった近江屋は明治時代に解体され現在は石碑が残るだけですがカメラは幕末から残る近江屋と同じ作りの澤井醤油店さんに行きました。龍馬は近江屋では隠し部屋に住んでいましたが澤井醤油店さんには同じ作りの部屋がありました。

天井が斜めで低く刀が振り回し難い事や窓から逃げられるメリットがありました。龍馬はピストルを所持していて寺田屋事件では幕府の役人を2人殺しました。剣術の腕もエキスパートな龍馬が隠し部屋で暗殺されました…

京都国立博物館に残されている資料に龍馬がいた部屋の掛け軸があります。床から60センチ位の低い位置に血痕がありそれは掛け軸の前にいた龍馬の目線の延長上に伸びていて客と座って向き合っていたと想像されます…

近江屋の向かいに土佐藩邸があり何かあったら直ぐに同志が駆けつける事が出来ます。近江屋から裏のお寺に逃げる事は可能です。そんな刺客にとっては悪条件の中で座った状態で龍馬を暗殺した実行犯とは…


2、龍馬暗殺の実行犯に迫る…

下立売通りは幕末に幕府の施設が多く建てられました。近江屋から3キロ離れていたこの場所に龍馬が出没していました。

龍馬と共に暗殺された中岡慎太郎は2日間命がありました。中岡慎太郎は新撰組が犯人だと思っていたようでした。後に新撰組の近藤勇が斬首され土佐藩の藩士は新撰組が犯人だと信じていたようでしたが明治3年に今井信郎という人物は龍馬暗殺に加わったと言いました。龍馬を暗殺したのは新撰組ではなくて見廻り組という幕府の役人からなる警察組織でした。見廻り組は二条城周辺を警備していてリーダーは佐々木只三郎という人物でした。


なぜ見廻り組が龍馬を狙ったのでしょうか?佐々木只三郎は松林寺というお寺に下宿していましたが近くに幕府の高官の屋敷がありました。龍馬は幕府の高官と接触していました。暗殺から1ヶ月ほど前に大政奉還があり徳川家の扱いで意見が分かれていました。

龍馬は徳川家を新政府に入れようと活動していましたが寺田屋事件で同志を殺された見廻り組のメンバーにしてみれば宿敵が目の前でチラチラしているのは目障りでした。佐々木只三郎は見廻り組から精鋭を選びました。

その中で二条城の御前試合でずば抜けた剣術の腕を持っていた桂早之助が選ばれました。桂早之助は先祖代々二条城の門番を勤めていた身分の高くない家柄でしたが家柄を超えて抜擢され桂早之助の剣術の腕がいかに優れていたか分かると思います。

桂早之助は西岡是心流という剣術を使いました。西岡是心流はすでに伝承は途絶えていますが左手に小竹刀を使う特殊な二刀流でした。小竹刀は龍馬の隠れ家での接近戦で優れていましたが唯一の難点は桂早之助は人を斬った事がない事でした。


3、龍馬暗殺の瞬間に迫る…

幕府は当初寺田屋事件で同志が2人殺されているので龍馬を捕縛するように命じました。


事件があった11月15日には7人が捕縛に行きました。夜9時半過ぎに客を装い近江屋の戸を叩きました。偽名の名刺を渡して山田藤吉が龍馬の元に行っている時に見廻り組のメンバーは近江屋の中に侵入しました。捕縛目的で山田藤吉は見逃す予定でしたがメンバーが山田藤吉に見つかり仕方なく山田藤吉を斬りました。

桂早之助は太刀を右に置き敵意のない事を示しました。しかし山田藤吉が斬られた時に大声を出して疑心暗鬼になっていたりいつピストルを抜かれるか分からない緊張感の中で桂早之助は座った状態で奇襲をかけました。奇襲は見事に成功しました。龍馬の刀の鞘が外れるほど手強い剣術の腕前でした。


初めて人を斬った桂早之助は普段飲みませんがこの夜はべろんべろんになっていたそうです。見廻り組のリーダー佐々木只三郎は桂早之助に歌を贈りいつかこの行為が認められる…と励ましました。


龍馬は幕府を新政府に取り込みたかったので龍馬亡き後は必然的に幕府外しの動きが強まりました。そして鳥羽伏見の戦いで佐々木只三郎や桂早之助は死ぬ事になりました。

もしも坂本龍馬が生きていれば幕府も違った形で新政府に加われたかもしれないし見廻り組のメンバーも亡くなる事はなかったと思います。龍馬暗殺で自らの命や組織が崩壊して行ったのは皮肉だな…と思いました。

歴史の非常さを感じましたが見応えのある番組でした。  


2013年05月09日 Posted by プラネマン at 00:27Comments(0)NHK、ヒストリア

NHK ヒストリア新撰組 最強剣士斉藤一

今日4月24日にNHKで放送されたヒストリアを見ました。今回のテーマは新撰組の最強剣士の斉藤一でした。

ペリー来航で幕府の対応に対して各地で不満がおきました。京都では治安を守る立場の役人が暗殺の標的になるほど荒れていました。会津藩は幕府を守るため200年に渡り武芸に励んでいましたが時の会津藩主松平容保は幕府の命を受けて1000人の兵を連れて京都に入りました。

その頃江戸では剣術道場主の近藤勇が剣の腕を国のために役立てたいと剣術に励んでいましたがいました。幕府は京都が荒れている事に対して身分に関係なく働ける者を求めていました。

近藤勇たちは認められ会津藩預かりとして松平容保の下で働く事になりました。近藤勇たちは池田屋事件という反幕府の勢力だった長州藩の企てをたたく手柄をあげ認められてきました。しかし新撰組は会津藩を語り借金をしましたが会津藩も財政難で資金調達の腕を見込まれ忠義の集団になっていきました。


近藤勇死後後を継いだのは斉藤一でした。その頃大政奉還があり長州藩から恨みを買っていた新撰組は孤立していきました。そして分派も出来バラバラになりました。斉藤一はスパイ活動のために分派に行きました。そして分派の長の伊藤を暗殺しました。


鳥羽伏見の戦いが始まりました。会津藩と新撰組は劣勢で京都を追われました。旧幕府軍の徳川慶喜は新政府に抵抗しない…と言いましたが新政府は武力で鎮圧しようとしました。旧幕府軍は会津に終結しました。

白河城近くの戦いでは新撰組130人に対して新政府軍400人を討ちましたが新政府軍の近代兵器や軍勢には敵わず劣勢になりました。旧幕府軍の幹部会議では会津を去り違う地で勢力を盛り返そうという意見が大半をしめましたが斉藤一は劣勢になったから見捨てるのは誠ではない…と言い会津に残りました。


会津についていた東北の同盟藩も新政府軍に降伏、逆に会津に兵を向ける藩も出ました。松平容保はついに降伏しましたが斉藤一も生き残っていて降伏しました。斉藤一は北に逃げる…という選択肢もありましたが松平容保について行きました。


新政府発足後会津藩士は軍隊や警察関係の仕事に就きましたが斉藤一は警察官になり西南戦争で手柄をあげたそうです。斉藤一と松平容保の関係は明治になっても続き斉藤一の結婚式では仲人をしたそうです。斉藤一は死後亡骸を会津に葬る事を望みましたが生涯に渡り貫いた誠の深さや大きさにただ感心するばかりでした。

時代背景が違うとはいえ離婚や転職など人間関係が希薄になっている中で強烈な人間関係や尊敬の念に感動するばかりでした。歴史の深さにハマった番組でした。  


2013年04月24日 Posted by プラネマン at 23:51Comments(0)NHK、ヒストリア