長野県立歴史館、信州の野球史

長野県立歴史館さんで公開中の平成25年度夏季企画展「信州の野球史〜大正から昭和初期にかけて全国屈指の強さを誇った中等学校野球〜」を見てきました。

近年甲子園では中々勝てない長野県の高校野球ですが大正から昭和初期にかけては全国屈指の強さを誇ったそうです。


その背景には長野師範学校出身の先生による熱心な指導や蚕糸業による経済的豊かさによる道具の普及などがあるそうです。


昭和3年には松商学園の前身の松本商業が第14回全国中等学校野球大会で優勝、深紅の大優勝旗がアルプス越えをしたり岡谷工業の前身の岡谷蚕糸学校が昭和4年年末から台湾遠征をした…などを中心に長野県の野球関連の資料が展示されていました。


長野県高校野球年表、

1、野球のはじまり、
30点

2、野球害毒論ト野球擁護論、3点

3、信州野球のはじまりと子供たち、49点、

4、戦前までの快挙、42点、

5、蚕糸業と野球、18点、

6、戦後の快挙、過去から未来へ、9点、

7、野球殿堂入りした信州人、20点、

計148の作品が展示されています。


個人的には大正時代の野球道具や軟式ボールの開発など道具の歴史を興味深く見れました。


選抜で飯田長姫高校が優勝した時の資料や松商学園高校が準優勝した時の資料、明治大学野球部監督の島岡吉郎氏が野球殿堂入りをした時の資料が良かったです。

18日までの公開です。元球児から野球に興味のある人まで多数の人が来場して盛り上げて欲しいと思います。


写真は松本城グラウンドで行われた長野商業対飯山中学の試合、昭和3年松本商業が優勝した時の写真とその時の深紅の大優勝旗です。  


2013年08月17日 Posted by プラネマン at 08:29Comments(0)長野県立歴史館の催し物

掘ってわかった信州の歴史、県立歴史館

先週の日曜日6月2日で公開が終了してしまいましたが長野県立歴史館さんの企画展「掘ってわかった信州の歴史」に行ってきました。

この企画展は長野県埋蔵文化財センターさんの30周年企画展と長野県の遺跡発掘2013を兼ねていました。


長野県内は広いので僕が住んでいる北信地区の展示を中心にブログアップしたいと思います。

「世界最古の磨製石器と環状のムラ」

信濃町にある日向林B遺跡では3万年前の斧など世界最古の磨製石器が発見されました。日本最多の60点ほどの磨製石器が発掘されました。野尻湖のナウマン象との関連が考えられるそうです。

「地下3メートルに埋まっていた縄文遺跡」

善光寺平の縄文遺跡は山間地にあるものが多いですが長野市松代の松原遺跡は千曲川近くの地下3メートルの場所に埋まっていたいました。約六千年前の遺跡とそこで発見された土器が展示されていました。


長野市若穂の川田条理遺跡では水田跡が発見されました。千曲川の洪水や砂に埋もれた弥生時代の水田跡でした。木製の農具も発見されました。今から1800年前の遺跡でした。


「石斧を分業生産した遺跡」
長野市若穂の榎田遺跡は木を切り倒すのに使用した磨製石器の斧の制作跡が東日本で初めて発見されました。ここで作られた斧は北陸や関東に流通していたそうです。今から1800年前の遺跡でした。


「姿を現した弥生時代の環濠集落」

篠ノ井遺跡群では深く大きな溝で囲まれた環濠集落が発見されました。クニが誕生した時代に作られたもので今から1800年前の遺跡でした。


「青銅器埋納坑の発見」

中野市柳沢遺跡では5点の銅鐸と8点の銅戈を納めた土坑が発見されました。西日本と同様の祭りが長野県でも行われていた興味深い調査結果でした。


長野県で生産された斧が広く流通していた事や銅鐸等が発見され長野県北部は古来から文化的なものがあった事が新鮮でした。

土器も美しくあの時代にこのようなものが作れる事は素晴らしいと思いました。期間最後の日に行ったのは失敗でもう少し早く行き最後にもう一度行けば感激は違ったと思います。とまれ驚きと感動に浸れ太古のロマンを感じた一時でした。  


2013年06月07日 Posted by プラネマン at 00:09Comments(0)長野県立歴史館の催し物

やさしい信濃の歴史講座

すでに1ヶ月以上前に終了してしまいましたが長野県立歴史館さんで「やさしい信濃の歴史講座」が行われていました。

長野県立歴史館さんが所蔵する資料を題材に全14テーマを7回にわたり歴史館の職員さんが解説する講座でした。

僕は全7回の内2回参加しました。1回目の「松本城に県庁があった…わずか5年の筑摩県」という講座はなぜ長野県が教育県と言われたか長年の謎が解けた講座で目から鱗が落ちる思いでした。この講座を通じて知る喜びを感じて歴史に興味を持つようになりました。歴史の番組を見るようになったり通信教育で歴史を学びたいな…と思わせた講座でした。


他には「大河ドラマ平清盛と小川荘」は交通の便が悪い時代に小川の辺りと京の都が密接な関係にあった…と知り胸熱でした。


「考古学が解き明かす縄文人の食卓」は千曲市の遺跡を発掘した結果、昔は千曲川に鮭がいた事や犬は食用ではなく狩猟用に縄文時代から人間とより添っていたと知り愛犬がいる僕からみれば嬉しい話でした。


「信長、秀吉、家康の戦略、武将が筆をとるとき」は目まぐるしく時代の流れが変わる戦国時代、当時の伝達は手紙しかありませんでしたが戦国大名がそれぞれ筆をとり信濃の戦国大名に書簡を送った話が興味深く感じました。


実際には聞けない講座の方が多かったですが「絵図から見る松代城とその城下町の謎」

「少女の指先が長野県を変えた」

「日本最北端の銅鐸、弥生時代の青銅器最前線」

という講座は聞いて見たかったです。やさしい信濃の歴史講座は3月16日で終了しましたが土曜日出勤と重なる機会が多くて参加できず残念でした。


現在長野県立歴史館さんでは遺跡発掘をテーマにした展示会を行っているのでそちらも楽しみです。長野県立歴史館さんのこれからの企画を楽しみにしています。  


2013年04月29日 Posted by プラネマン at 20:38Comments(0)長野県立歴史館の催し物

県立歴史館 愛娘の調度品

すでに終了しましたが長野県立歴史館さんの冬季企画展で公開されていた「愛娘の調度品」〜姫君様の婚礼道具から雛人形まで〜を見ました。

1、「将軍家姫君様の絢爛たる婚礼道具」〜丁字唐草葵紋蒔絵調度〜が35点


2、「極小の美の世界」〜田中平八家の雛人形、雛道具〜が73点展示されていました。


1、丁字唐草葵紋蒔絵調度
江戸時代、嫁ぐ娘に両家の家紋を入れた婚礼道具を持たせました。長野県立歴史館さんが所属する婚礼道具は漆地に多量の金粉を散らした「濃梨子地」とよばれる最高級の漆調度品を含み葵の御紋入りなので徳川家ゆかりのかなり身分の高い所持品だと想定されています。


婚礼道具は持ち主から下賜されたり形見分けされ分割されるので素性を探れませんが長野県立歴史館さん所蔵品は徳川将軍家の姫君の道具と同格であり、時代は10代将軍家以降の18世紀後半以降の作品だといえるそうです。


そんな歴史のロマンを感じさせる所蔵品がある長野県立歴史館さんを改めて見直しました。個人的には将軍家の姫君様が使った円鏡が気に入りました。その鏡を覗くと僕の冴えない顔が映りますが将軍家の姫君様もこの鏡を覗いたんだろうな‥と思うと不思議な気がしました。家来の女の人も姫君の目を盗んで鏡を覗いたのだろうか‥歴史は楽しいな‥と思いながら鏡を覗いていました。


2、田中平八家の雛人形、雛道具

長野県ゆかりの第実業家田中平八家に伝来した雛人形と雛道具は2代目が長女花子のために整えた明治を代表する逸品です。

田中平八家の子孫の方がルーツである長野県の県立歴史館さんに寄贈したものです。田中家では美術品のある部屋では暖房を使わないなど管理が徹底していて現在我々が絶えてしまった日本の美しい技を見る事が出来ます。


展示品は73点ありたくさんあるので全ての感想は書けませんが着物に描かれていた桜の木が印象的でした。現代人が桜を観賞する時は花を中心に見ると思います。しかし着物に描かれていた桜は幹や本体も描かれていました。当時の日本人は自然をありのままで受け入れていた事を知り感動的でした。


僕は独身なので愛娘の調度品など縁がない世界と思い最終日に見ましたが何度見ても飽きない日本人の美が彩られた作品群でした。これで終わりだと思うと残念ですが歴史の深みとロマンを感じた展示会でした。  


2013年03月24日 Posted by プラネマン at 19:50Comments(0)長野県立歴史館の催し物

考古学が解き明かす縄文人の食卓

この冬の間千曲市にある長野県立歴史館さんでやさしい信濃の歴史講座というイベントが開催されていています。期間中7回14講座のお話がありますが今回は4回目の「考古学が解き明かす縄文人の食卓」というテーマでお話がありました。


現代人は買い物〜調理〜食卓という手順で食事になりますが縄文人は調達〜煮炊き〜食卓という手順で食卓にありつけ現代人より食べるという事はハードな事でした。


更埴インター近くの屋代遺跡群から出土した動物の骨は5千年前の縄文中期前葉はニホンジカが108、イノシシが108、その他ツキノワグマが1、ホンドテンが1、約4200年前の中期後葉はニホンシカ52、イノシン278、トリが10、野うさぎ3などになっていてイノシシやニホンシカが圧倒的に多い状態でした。

イノシシのあごの骨が10頭前後見つかり血や骨髄液を塩の代わりに使っていたそうです。イノシシを捕まえると村人の食糧が潤いイノシシを捕まえるのはステータスでイノシシの骨をアクセサリーとして飾っていた人骨が見つかっています。

昭和初期まで千曲川やその支流で鮭が捕れ平安時代の法典には信濃国では都への租税として鮭の加工品を納めていた文献がありました。屋代遺跡群では鮭属の骨が550見つかり鯉科の骨の発見が20だったので鮭が食べられていたのが分かります。


縄文人はイノシシは肉を削いで土器で煮ましたが鮭類は火であぶって一部は燻製にして冬場に食べていたようです。縄文人は最低限必要な分以外は乱獲をせずに自然と共存していたそうです。


千曲川に鮭がいた事や縄文人は落とし穴や柵を作り犬を使って獲物を追い込みながら集団で猟を行い犬を食べる事はなくこの時代から人間と犬が共存していたのは興味深い話でした。時間に限りはありましたが内容の濃いお話でした。  


2013年02月19日 Posted by プラネマン at 05:07Comments(0)長野県立歴史館の催し物

県立歴史館と歴史探究13年1月

長野県立歴史館さんでやさしい信濃の歴史講座という講演会が行われています。全7回14講座の講演会ですが1月12日に行われた第1回の歴史講座に行ってきました。

そこでは「長野県に伝わる最古の紙文書」というテーマで860年前に発行された紙文書についての解説がありました。当時政治をしていた鳥羽法皇の院庁が発行した文書でしたが現代より交通手段が悪い時代に京都と繋がっていた‥というのは興味深い話でした。


当日もう1講座「松本城に県庁があった、わすが5年の筑摩県」という講座がありました。長野県は○○県である‥と○○に文字を入れろ‥と言われれば多くの人は教育県と答えると思います。僕は前から長野県=教育県と言われる事に疑問を持っていました。筑摩県の講座でなぜ長野県は教育県と呼ばれるのかが分かり目から鱗が落ちる思いでした。知る事の喜びと歴史のロマンの奥深さを45になって知りました。最後に本当の教育とは偏差値や進学率ばかりでないと思います‥と講座は締めくくられました。あまりの感動から歴史の番組も見るようになり毎月の長野県立歴史館さんでの出来事を残そうと思うようになりました。新年早々から今年の個人的重大ニュースになるようなインパクトがある歴史講座でした。


江戸の職人芸についての冬季講演会も興味深い内容でした。日本の職人の技術は世界のトップレベルで日本を訪れた外国人が驚いた事や職人芸が錦絵や東芝のルーツを作ったという話も面白かったです。


これを機会に歴史のテレビ番組も見るようになりましたが1月はNHKヒストリアという番組でおいらんと豊臣秀吉の妻おねの話を見ました。西洋では娼婦は低く見られていますが日本のおいらんは囲碁や将棋、文章に秀で常に自分を研いていたそうです。ファッションの発信をしたり浮世絵になったり僕の知らない一面を知り知的好奇心が満たされました。

秀吉の妻おねは秀吉の成功をバックアップしましたが秀吉の死後富みを捨てて出家しました。おねにとっては財産や地位より秀吉と過ごす事が大事だったんだろうな‥と感じました。おねの遺品の中に秀吉の人形と片膝を立てているおねの人形があったそうです。片膝を立てると言うことは接待をしている‥という意味であの世でおねは秀吉の接待をしているのでしょう‥と番組は締めくくられましたが独身の僕から見れば秀吉は後世に名を残したよりおねと知り合った事が羨ましく思いました。


2月も長野県立歴史館さんとNHKヒストリアでどんな発見があるか楽しみです。  


2013年02月08日 Posted by プラネマン at 06:06Comments(1)長野県立歴史館の催し物

講演会 江戸の工芸〜その技と心〜

昨日1月19日に長野県立歴史館さんで開催された冬季展講演会「江戸の工芸〜その技と心〜」を聞きに行きました。

東京都江戸東京博物館館長の竹内誠先生が講演しました。竹内誠先生は昭和8年生まれの80才、お父さんが須坂市、お母さんが千曲市出身で幼い頃に千曲市に疎開した事があり昭和42年頃には信州大学の教育学部や人文学部で助教授をした事があり長野県と縁の深い人です。NHK大河ドラマや金曜時代劇などの時代考証を担当していてどんな講演になるか楽しみでした。

徳川の平和
江戸時代に職人の技術が発達したのは平和な時代が続いたからで平和故に文化が発展2世紀も続き成熟していきました。

子供の頃から遊びの道具を作る技術や知恵があり伝承として残り自然にあるものの恩恵を道具に伝えていました。

手作り文化の極致
日本に来た外国人は日本の職人の技術に驚いたそうです。シューリマン曰く「工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している」と褒めペリーも絶賛していました。


からくり儀右衛門
からくり人形や万年時計、蒸気船や蒸気機関車の模型を作った「からくり儀右衛門」と言われた田中久重氏は久留米べっこう細工職人の子でしたが田中久重氏が東芝の基礎を創りました。職人の技術が今日の東芝のルーツだと解説がありました。


「いき」な色
江戸時代の人々は現代人より色彩感覚に優れていました。灰色でも深川鼠、銀鼠、葵鼠、漆鼠、紅掛鼠、利休鼠、と色彩に富んでいました。故にお客さんからの注文も多くオーダーメイド的な商品が多くなっていった‥と解説がありました。

錦絵の誕生、
当時の暦は大の月は30日、小の月は29日となっていました。当初は何月が大の月、何月が小の月と紙に書いていましたが味気なかったので横綱の絵や美人画などに暦を書いていました。絵から暦が取り払われ錦絵として発展して行きました。職人の技術が錦絵を生んで行きました。


資本主義社会では量産する事を良しとしますが江戸時代はお客さんの個性によって商品が作られて行きました。1つ1つの商品には作り手の思い宿り使う人も大切に使いゴミ箱に捨てる‥という事はなく役目が終えたら自然に帰って行く‥というスタイルだったそうです。現代では江戸時代と同じ事は出来ないですが竹内誠氏の講演を聞いて日本人が豊かさの代わりに無くしてしまったものも大きいな‥と思いました。


永六輔の職人気質の話で「褒められたい、認められたい、そう思い始めたら仕事はどこか嘘になります」「子供は親のいうとおりに育つものではなく親のするとおりに育つものです」という職人気質の話が印象的でした。


まだまだ良い話はたくさんありましたが上手くまとめられずに申し訳なく思います。歴史の楽しさや奥深さに触れた講演会で行って良かったと思いました。竹内誠先生素晴らしい講演をありがとうございました。ご健康とこれからの活躍を願っています。  


2013年01月20日 Posted by プラネマン at 19:04Comments(0)長野県立歴史館の催し物

長野県に伝わる最古の紙文書

昨日1月12日から千曲市にある長野県立歴史館さんで「やさしい信濃の歴史講座」という講演会が始まりました。

長野県立歴史館さんの収蔵資料を題材に全14テーマを7回にわたり県立歴史館さんの職員が解説する講演会です。

記念すべき第1回目の講演は「大河ドラマ〈平清盛〉と小川の庄」という話でした。

平清盛の話が中心ではなくその時代に作られた「鳥羽院庁下文」と伊勢平氏の話が中心でした。


長野県立歴史館さんには重要文化財に指定されている収蔵品が全4個あるそうです。その内3個は考古学系の作品ですが残り1個が今回のお話に登場した「鳥羽院庁下文」でした。

この文章は平安時代の終わり頃に平安京で作成され信濃にもたらされたと考えられる文章で長野県に伝わる紙の文章としては最も古いものになるそうです。


当時は鳥羽法皇が政治の実権を握る院政が行われ院庁と呼ばれる組織が実務を行っていました。鳥羽法皇は荘園とよばれる支配地が全国にあり信濃の小川の庄はその1つでした。

小川の庄は現在の長野市安茂里から小川村にかけての地域が領域だったのではないか‥と推定されていました。

小川の庄は増証という地元の有力者の祖先が開拓した領地で鳥羽院政の時代に鳥羽法皇が建立した最勝寺というお寺の領土になりました。この荘園で実務を担当していた清原家兼が殺された時に伊勢平氏の平惟綱が譲り状を持ってきて荘園を仕切り始めたそうです。


本来は増証が仕切るべきなので増証は院庁に平惟綱の横暴を止めるように訴えでました。院庁は増証の現地支配権を認め平惟綱の横暴を禁止するため下文を与えました。これが現在長野県立歴史館さんに残っている鳥羽院庁下文です。


伊勢平氏は祖の貞盛から3代目の正度の代で分かれましたが正度から4代目が惟綱であり写真の鳥羽院庁下文で左から2番目にサインしていないのは惟綱の親戚にあたる同族の平忠盛でした。

どうしてサインしていないのかは今となっては謎ですが歴史のロマンを感じさせる話で興味深いと思います。

鳥羽法皇が建てた最勝寺は高さ81メートルの塔があったそうですが今より交通事情が悪い時代に小川の庄が時の権力に関わっていた‥と思うと凄いと思いました。今度小川方面に行く時は歴史のロマンに浸りながら山間の風景を見てみたいと思います。

後に小川の庄は松殿家が引き継いだそうです。松殿家は娘を木曽義仲に嫁がせたそうですが義仲亡き後断絶したそうです。


まだまだ興味深い話がたくさんあり人物が登場する度に大河ドラマ平清盛では誰々が演じていた‥と解説してくれました。僕は大河ドラマ平清盛を見てなかったので実感は湧きませんがあっという間に講演時間が終わり歴史の面白さを知りました。僕に表現力がなく上手く伝わらずに申し訳なく思います。


もしも何の知識もなくこの鳥羽院庁下文を見てもふーんで終わっていたと思いますが参加して本当に良かったと思い3連休の初日を有意義に過ごせました。

長野県立歴史館さん素晴らしい講演ありがとうございました。これからも歴史の面白さを発信しつつ長野県の文化的な宝として盛り上がって欲しいと思います。  


2013年01月13日 Posted by プラネマン at 20:39Comments(0)長野県立歴史館の催し物

松本城に県庁があった‥ わずか5年の筑摩県

昨日1月12日から千曲市にある長野県立歴史館さんで「やさしい信濃の歴史講座」という講演会が始まりました。

期間中14テーマを7回にわたり歴史館さんの職員の方が解説をしますが昨日1月12日の第1回目は「松本城に県庁があった‥わずか5年の筑摩県」というタイトルで講演会がありました。


長野県は「○○県」と問われた時に「教育県」と答える人は多いと思います。僕は前から長野県=教育県と言われる事に違和感があり風俗店が無いから教育県だと思っていました。長野県が教育県と言われる由来が分かりカルチャーショックを受けた講演会でした。


明治維新になり廃藩置県になりますが明治政府はまず江戸時代以前の文化や風習の否定から入りました。薩長の有力者が新しく出来た各県に配属になりました。
山梨県に赴任した知事はワインに力を注いだり青梅街道、甲州街道等の道路整備に力を注ぎ岐阜県に赴任した知事は長良川等の治水事業に力を注ぎその県の代名詞みたいな産業を興しましたが中南信と飛騨高山地方を筑摩県と命名して薩摩より永山盛輝氏が筑摩県の知事に任命されました。


永山盛輝氏は西洋各国が豊かなのは学校教育によるものだと考え学校設立の奨励を行ったそうです。


学制公布後は一小区一小学校の設置
筑摩県医学兼病院の創設
筑摩県師範学校の開設

等積極的な教育行政を展開したため「教育権令」と評価されたそうです。

永山盛輝氏は知事の給料より高い給料で優秀な人材を呼び教育の普及に努め先見の目がありました。永山盛輝氏が自ら各地に足を運びちょんまげの人達に教育の大切さや学校を作ろう‥と呼びかけたそうです。

永山盛輝氏は信飛新聞という全国で一番早くに新聞を作りいろいろな面で先見の目を持っていました。


明治維新で江戸時代の文化が否定されました。明治政府は各県でお城にあった武器は陸軍に引き渡し天守閣ややぐらは取り壊し公園として開放するように命じました。しかし松本城は解体の費用が予想以上にかかる事を知った永山盛輝氏の側近が松本城で博覧会を開く事を提案してそれが好評で1日4千〜5千人集まり松本城の取り壊しが行われなかったそうです。


江戸時代の文化が否定されながらも侍文化の象徴の松本城が残ったのは永山盛輝氏や側近達の先見の目があったからであり旧開智学校も永山盛輝氏の考え方に共感した市民の寄付によって出来たそうです。


江戸時代の文化の否定から寺小屋、私塾が廃業になりましたが明治5年には筑摩県では廃業数220、東北信の旧長野県では121、明治6年には廃業数筑摩県111に対して旧長野県は315と筑摩県の方が先見の目があり古きを脱却して新しい取り組みに励んでいた事が分かりました。


明治初期の就学率ですが明治6年は筑摩県が39・48%、旧長野県は48・1%で旧長野県の方が高かったですが翌年の明治7年では筑摩県65・96%、旧長野県54・37%と逆転、明治8年には筑摩県71・57%、旧長野県54・97%とさらに開き永山盛輝氏の政策が浸透してきたのが分かります。

明治9年には統合され63・24%になりましたが全国平均38・31%で全国1位の就学率でいかに永山盛輝氏の政策が素晴らしかったのか分かりました。

実際にはもっと詳しく興味深い話もありましたが僕の水準が低く上手く伝えられず申し訳なく思います。

長野県は教育県というのは東北信を指しているのではなく松本を中心とした旧筑摩県の功績だと分かり目から鱗が落ちる思いでした。永山盛輝氏の出身の鹿児島県では永山に学べ‥という事で昭和33年まで長野県に教員を派遣していたそうです。


長野県(男)と筑摩県(女)が結婚して妻が長野県と名乗るようになりましたが妻の功績が凄くそのおこぼれを受けている夫がみんなから凄いですね‥と言われて教育県と言われているのが分かりました。

サイトーキネン等文化の浸透度などのソフト面、文化施設の有効活用のハード面、サッカーの盛り上がりなど同じ県なのに何で違うのか‥長年の謎が溶けた講演会でした。県立歴史館さん素晴らしい講演をありがとうございました。県民の宝としてこれからも期待しています。  


2013年01月13日 Posted by プラネマン at 13:14Comments(0)長野県立歴史館の催し物

縄文土器展 土器一万年の旅

長野県立歴史館さんで公開していた「縄文土器展 千曲川流域、土器一万年の旅」に行ってきました。この企画は平成24年度秋季企画展の縄文土器展の後期展として行われました。


千曲川流域の縄文文化は八ヶ岳山麓に比べ注目されてきませんでしたが千曲川上流の御代田町河原田遺跡の「焼町土器」が重要文化財、下流の新潟県十日町市笹山遺跡から発掘された土器が国宝に指定されそれらの土器が展示されていると知り楽しみでした。


展示は5つの分野で110展展示されていました。

第1部は「丸底、尖底器形の繁栄」で5品展示されていました。1万3千年前の草創期の土器で北信地方では長野市村東山手遺跡と信濃町東裏遺跡から発掘された土器が展示されていました。

第2部は「平底の普及と装飾のはじまり」で25品展示されていました。尖底は6千年前まで残りその後平底が普及したそうですが長野市松原遺跡から16品展示されていました。大きい土器が原型に近い形で残っていて壮大でした。個人的には写真右上にある晴ケ峯式土器が気に入った土器でした。大型の把手の付いたトロフィー型土器ですが模様が美しくどこかしら人間の顔を現しているようで古代人から何かメッセージがあるのかな?とロマンを感じてしまいました。


第3部は「豪華な装飾」で約5千年前の縄文中期の土器が60品展示されていました。この時代の土器の中に国宝に指定された十日町市笹山遺跡の土器や御代田町河原田遺跡の重要文化財の土器4品も展示してありました。

御代田町宮平遺跡から発掘された釣手土器はあくびちゃんと呼ばれ人間があくびしているように見え親しみが持てました。長野市松原遺跡から8品、千曲市屋代遺跡群から28品展示されていました。


第4部が「立体的な文様の衰退」で約3千年前の縄文後期の土器が17展展示されていました。長野市は松原遺跡が2品、村東山手遺跡が5品展示されていました。

第5部は「最後の縄文土器」で約2千年前の土器が3品展示されていました。その後北陸や東海で稲作が始まり弥生時代になって行ったそうです。


美術館で陶芸を見ているような錯覚になった芸術的な土器展でした。前期の八ヶ岳山麓の土器展もスケールは大きかったですが今回は長野市周辺から発掘された土器が多数展示してあり高度な知識を持った縄文人が長野市にも住んでいたのか‥と思うと歴史のロマンが身近なところで感じられ親しみが持てました。


松原遺跡や村東山手遺跡に住んでいた長野市の縄文人は夜空をどんな気持ちで見ていたのだろうか‥音楽はあったのだろうか‥身を守る格闘技はあったのだろうか‥いろいろな事を聞いてみたかったです。何千年を経て蘇った土器達から太古のロマンを感じられた素晴らしい展示会でした。残念ながら今日12月16日で土器展は終了してしまいましたが見に行って良かったです。


長野県立歴史館さんの素晴らしい企画展を期待しています。  


2012年12月16日 Posted by プラネマン at 20:39Comments(0)長野県立歴史館の催し物

縄文土器展 八ヶ岳山麓の名作

長野県立歴史館さんで公開中の〜縄文土器展、八ヶ岳山麓の名作〜に行ってきました。


この企画展は長野県立歴史館さんの秋季企画展として開催されました。縄文時代の長野県は八ヶ岳山麓や千曲川流域などに地域色の強い文化が栄えたそうですが前期と後期に分け前期は八ヶ岳山麓の土器展として開催されました。


八ヶ岳山麓は黒曜石資源や自然環境に恵まれ5千年ほど前に縄文王国として栄えたそうです。チラシに写っている土器を見ているだけでもドキドキしてきました。


8つのテーマで展示してありました。

1、図形的文様の土器‥
だ円形などの図形の区画で文様をつける「区画文」と縦長の区画をパネルのように張りつける「パネル文」があるそうですが山梨県草笛市釈迦堂遺跡から発掘された重要文化財の区画文土器他10点展示されていました。個人的には富士見町の立沢遺跡発掘の土器の方が大きくて気に入りましたがどの土器もよく保存されているな‥と思いました。

2、動物的文様の土器‥

山椒魚のような動物を表現した抽象文とヘビを意匠化した蛇体把手文があるそうですが6点の土器が展示されていました。当時の技術でこれだけ鮮やかにヘビの形を描け感動的でした。


3、樽形土器‥

用途は太鼓や酒造具説と想像されていますが釈迦堂遺跡発掘の重要文化財2点を含め5点展示されていました。岡谷市花上寺遺跡から発掘された土器はスケールが大きかったです。


4、顔のある土器‥

伊那市御殿場遺跡から発掘された顔が付く把手土器他6点展示されていました。縄文のロマンが伝わってきました。


5、大型の土器‥

高さ50センチ以上の土器が山形村3点、茅野市1点計4点展示されていました。

6、超小型の土器‥

高さ10センチに満たない土器が釈迦堂遺跡から発掘された20点展示されていました。これだけ精密だと逆に凄いと思いました。


7、把手が発掘した土器‥
山梨県草笛市の一の沢遺跡発掘の重要文化財を含め3点、茅野市発掘3点計6点展示されていました。

8、異形の土器‥

用途は不明ですが山形村発掘2点、塩尻市発掘1点、安曇野市発掘1点、茅野市発掘1点計5点展示されていました。


別枠として富士見町藤内遺跡発掘の重要文化財区画文の土器他5点展示場の中央に展示されていました。


考古学と美術史の一面に触れたようで言葉に出来ない感動がありました。

この日は日曜日でしたがほとんどお客さんがいなくてゆっくり見れたのは良かったのですが県民の財産を独り占めして勿体なく思いました。


11月10日から後期展が開催されますが前期とどんな違いがあるのか今から楽しみです。多くの人に長野県立歴史館さんで非日常的な時間を過ごして欲しいと思います。  


2012年10月29日 Posted by プラネマン at 21:25Comments(2)長野県立歴史館の催し物

長野県の遺跡発掘2012

千曲市にある長野県立歴史館で開催されている長野県埋蔵文化財センター速報展「長野県の遺跡発掘2012」に行ってきました。

長野県埋蔵文化財センターが長野県内の23の遺跡を調査研究した結果の展示会がありました。中野市の柳沢遺跡は約2千年前の弥生時代の遺跡ですが銅鐸2つと青銅の発掘物5つが展示してありました。歴史のロマンを感じさせる風格ある展示品でした。

長野市豊野の南曽峯遺跡は旧石器時代の2万年前の遺跡ですがナイフ型の石器が感動的でした。黒曜石という素材で作られていました。黒曜石は2時期に分かれ発掘されていた事が分かり調査上価値がある遺跡だそうです。

中野市の千田遺跡は約5千年前の縄文時代の遺跡ですが土器が原型に近い形で残っていて感動的でした。近くに川久保、宮沖遺跡もありこちらは古墳時代の土器ですが原型に近い形で残っています。中野市周辺の5遺跡からの発掘物が展示されていました。中野市周辺には古くから文明が栄えていた事が分かり興味深かったです。


長野市では浅川扇状地遺跡郡の展示物がありました。JR北長野駅に近い住宅街から見つかった遺跡で古墳時代〜平安時代の集落、中世の館が重なりあって見つかったそうです。遺跡や発掘物は普段の生活では意識しませんが時代を超えてきた展示物の数々に感激するばかりでした。この展示会は5月13日までですが一見の価値はあると思います。同時に長野電鉄屋代線のミニ展示会も開催されています。


長野県立歴史館は初めて行きましたが常設展示場には長野県の文化の歴史が展示されていました。場内は広々として解放感があり安らげました。近くの山の新緑が間近に見えくつろげました。ゴールデンウィーク中でしたが有名観光地のように混雑していなくて穴場的な施設でした。歴史のロマンに感動して穴場のスポットを発見して実りが多かったです。来年の発掘報告や県歴史館の次の企画展が楽しみです。歴史文化の発信を期待しています。  


2012年05月10日 Posted by プラネマン at 05:12Comments(0)長野県立歴史館の催し物