天上の響きにつつまれて/ハープ入門/NHK 、らららクラシック

通常はクラシック音楽の名曲を1曲特集しますが今回は夏の特別企画としてハープの特集でした。
毎回クラシック音楽のファンのゲストが登場しますが今回はお笑い芸人の山田花子さんが出演しました。山田花子さんの夫はトランペット奏者でクラシック音楽に縁のあるゲストでした。
まず最初に山田花子さんにハープはこんな場所で使われている…というクイズがありました。答えは病院で病院の手術室でした。
番組は3つのテーマで進められました。最初のテーマは「気持ちイイ…豊な響き」でした。
番組冒頭でハープは病院で使われている…という話がありましたがハープセラピーと呼ばれハープの音色を患者に聞かせると心拍数がへり緊張や苦痛が減る事が分かりました。
ハイビジョンカメラで弦の揺れ具合を調査しました。1つの弦を弾くとたくさんの弦が揺れる事やしばらく振動が続くので余韻が残り易い…という事が分かりました。
今回のゲストに世界的なハープ奏者の吉野直子さんが出演しましたが山田花子さんにレッスンしました。動いている弦を止めてもなっている事に驚いていました。
ハープ名場面特集として
マンドリン(バリシュ、アルヴァーズ)
フルートとハープのためのソナタ
交響曲第5番、(マーラー)の演奏場面がダイジェストとして流れました。
第2のテーマは「ハープを愛した男たち」でした。
ハープは古代エジプトの壁画やギリシャ神話にも登場しました。
マリーアントワネットが宮廷でハープを演奏させ人気が出てパリにハープ奏者や技術者が集まるようになりました。
クルムファルツは当時のハープが転調が困難だった事に不便に思いハープ技術者のエラールを訪ねより演奏しやすいハープの製作を依頼しました。
完成まで20年かかりましたが完成間近の時は連日徹夜を続けていたそうです。エラールはダブルアクションペダルハープを完成させました。当時はシングルアクションペダルハープと言われたハープが主流でペダルを踏むと半音高くなるハープでした。
ダブルアクションペダルハープはペダルが7本あり両手に足が忙しく演奏するそうです。美しい水鳥は水面下では足を必死にバタバタさせていると聞きましたがそんな事を思い出しながら見ていました。
最後のテーマは美美美、響きマジックでした。
17才でイスラエル国際コンクールに入賞した吉野直子さんがグリッサンド、ハーモニクス、などのテクニックの解説をした後で「いたずら小鬼のおどり」を演奏しました。ペダルの使用度が高くハープの中では難曲ですが素晴らしい音色を奏でていました。
優雅な音色に浸れた至福の30分でした。次回は夏の特別企画2でらららクエスチョン特集で楽しみです。
2014年07月28日 Posted by プラネマン at 23:11 │Comments(2) │NHK らららクラシック
夏野菜カレー400円/仕出し弁当のち志ま


懐が1日だけでも温かくなると気持ちも大きくなり外食をしたくなります。普段は会社の昼食では出前をとりますが今回は仕出し弁当のち志まさんの7月限定メニュー「夏野菜カレー」を食べてみたくなりました。
夏は食生活が偏り気味ですがなすやかぼちゃの夏野菜とカレーがマッチして瞬く間に平らげてしまいました。美味しいものを食べて気分一新がんばれそうです。
ち志まさんこれからも他店にないオリジナルなメニューを期待しています。地域に根付いたお店として頑張って欲しいと思います。
2014年07月24日 Posted by プラネマン at 12:47 │Comments(0) │長野市周辺、カレー
7月26日ホクト文化ホールイベント/ホールとあそぼ


僕は本来今週の土曜日7月26日に出勤予定でしたがこの日はどうしても行きたい用事があり三連休だった19日の人に代わってもらい3連休の初日に出勤しました。
社会人としては貴重な三連休を代わり行きたかった用事とは…それはホクト文化ホールでイベントがあったからでした。
その日はホクト文化ホールの1日解放日で大、中、小ホール、ギャラリー、ロビー、会議室までも解放してイベントが行われます。
今回特に楽しみにしているのは会議室で行われるパイプオルガンコンサートと中ホールで開催される音楽ボランティア演奏会です。
ホクト文化ホールの第3、4会議室にはパイプオルガンが設置されています。日頃パイプオルガンを練習している同好会の会員の演奏や体験コーナーもあります。普段聞く事の出来ないパイプオルガン音色が楽しみです。
音楽ボランティア演奏会は音楽ボランティアに登録されている方が福祉施設や学校、病院などで要請があった時に演奏活動をしますが今回は3組の演奏があります。
パイプオルガンにしろ音楽ボランティアにしろ他の施設にないホクト文化ホール独自の活動で楽しみにしています。ホールにはマルシェが出店してそちらも楽しみです。
長野市周辺の文化、芸術のメッカであるホクト文化ホールですが素晴らしいイベントになる事を願っています。
2014年07月24日 Posted by プラネマン at 06:01 │Comments(0) │音楽・舞台芸術の話題
楽天、球宴後の初戦、接戦を制する

テレビをつけた時は6回裏で楽天が4対7とビハインドでした。楽天のピッチャーは長谷部投手でした。
7回表楽天は先頭打者藤田選手が2ベース、ジョーンズ選手がヒットで無死1、3塁、ここで西武は牧田投手からウィリアム投手に交代しました。ラッツ選手が死球で満塁になりボーカー選手がタイムリー内野安打で5対7、楽天押せ押せでしたがダブルプレーで一瞬のうちにチャンスを無くしました。
7回裏楽天は長谷部投手から福山投手に交代、先頭打者にヒットを打たれバントで1死2塁で放送が終了しました。
満塁のチャンスを逃して厳しいかな…と思いましたが西田選手の3ランで楽天が接戦を制し球宴後の初戦を白星で飾りました。
借金はなかなか減りませんが最下位争いをしている西武に競り勝ったのは大きいと思います。後半戦はクライマックスシリーズを目標に頑張って欲しいと思います。
2014年07月22日 Posted by プラネマン at 22:35 │Comments(0) │楽天イーグルス
巨匠から若手へ…ピアニスト中村紘子さん/題名のない音楽会

番組は50周年特集として巨匠から若手へ…という企画でピアニスト中村紘子さんの公開レッスンとオーケストラとの共演がありました。
まず07年10月7日に放送された「あなたもピアニスト」という放送のダイジェストが流れました。この番組は中村紘子さんが公開レッスンをした貴重な映像でした。
今回の公開レッスンの1人目は東京芸大3年生の鈴木宏英さんでした。鈴木宏英さんはショパンの雨だれを弾きましたが中村紘子さんは「良いピアニストになると思う」と褒めていました。
ルックスは重要で舞台に登場しただけで聴衆の心をつかめるように頑張るように言われました。
問いと答えのような連呼を奏で連打の音は脅迫のように…ショパンは2度同じ事をしない…と個人レッスンをしていました。
続いて山口県の高校2年生、石田成香さんの公開レッスンでした。石田成香さんは17歳で国際コンクールに入賞した次世代の期待のピアニストですが今回の公開レッスンで「オーケストラとのかけあいを学びたい」と語っていました。
オーケストラのパートを中村紘子さんがピアノで演奏しました。課題曲はリストのピアノ協奏曲第1番でした。
「響く音を身につけるのが大事」
「冒頭の部分でお客さんをノックアウトするように」
「出だしの音には力を入れて」
「ストーカーに追われるような緊迫感を」
「ストーカーの後には素敵な人が表れるように…奏でるようにレッスンがありました。
中村紘子さんは日本は先進国になり1日8時間籠ってピアノを弾く人がいなくなった…と語っていました。
最後にグリーグのピアノ協奏曲の第1楽章を東京シティフィルハーモニックの皆様と共演しました。
グリーグはノルウェーを代表する音楽家で北欧のショパンと呼ばれていました。冒頭の部分はフィヨルドにぶつかる滝の流れを表している…と語っていました。一流ピアニストの素晴らしい熱演でした。
中村紘子さんのますますの活躍と50周年を節目に番組のバージョンアップを期待しています。
2014年07月21日 Posted by プラネマン at 18:52 │Comments(0) │題名のない音楽会
三原じゅん子議員、子宮勁がん薬害問題を見捨てないで…
http://trs00.mxcd.imodesearch.jp/?url=http%3A%2F%2Fhayabusa3.2ch.sc%2Ftest%2Fread.cgi%2Fnews%2F1402805673%2F&kw=%EF%BC%92%EF%BC%A3%EF%BC%A8%EF%BC%8C%E5%AD%90%E5%AE%AE%E5%8B%81%E3%81%8C%E3%82%93&guid=on
号泣で有名になった野々村元兵庫県議員は議員を辞職、使途不明金は返済する事で一応の幕は閉じました。庶民の血税を貪る輩はとことん突き詰めてケジメをつけて欲しいと思います。政党のバックの無い野々村議員をトカゲの尻尾切りにして問題解決で終わらせて欲しくないと思います。
野々村元兵庫県議員より質の悪い国会議員が好き勝手な事をしています。それは自民党女性部長の三原じゅん子議員です。
三原じゅん子議員の野々村元議員を上回る悪事は…
1、母親を議員宿舎に住まわしていた…
本来議員宿舎とは地方から来る議員のために都心に住居を提供するものであって都心に住んでいる三原じゅん子議員が使うものではないと思います。
2、芸能人の頃から付き合っていた内縁の夫を法律で違反の公設秘書にして税金を懐にいれていた。
3、身内の生活保護受給問題、
三原じゅん子議員の内縁の夫の妹が生活保護を受給しているのを週刊紙に取りあげられたが本人や自民党からは説明がなかった。
三原じゅん子議員と内縁の夫の世帯収入は何千万円にもなるのに身内に生活保護受給者がいる。三原じゅん子議員や内縁の夫は都心に70万円の家賃のマンションに住んでいるのだからマンションの質を落として仕送りしてあげれば良いと思います。
芸人が生活保護不正受給をした時に叩いていた自民党女性議員も身内にはダンマリ…疑惑が出ているのに女性部長になっている…とは国民をなめています。
国民には身内で生活保護受給者の面倒を見るようにいいながらもしかしたらまだ生活保護を受給しているかもしれません。
三原じゅん子議員は野々村元議員より税金に寄生しながら自民党をバックに好き勝手にしているのです。
そんな中で少し前に2CHのニュース速報に子宮勁がんワクチンの薬害で19歳の女子大生が親の顔が分からなくなった…というスレがありました。その中で50人に1人の割合でワクチンの薬害被害にあっているとありました。
かつて三原じゅん子議員は子宮勁がんワクチン接種を奨励していました。しかし問題が出ても知らんぷりです。
本人は良かれと思い奨励しても実際に被害者はいるのです。三原じゅん子議員は都心に70万円のマンションに住みながら三原じゅん子議員の言う事を聞いた人は地獄を見ているのです。
三原じゅん子議員は被害者救済に立ち上がるべきだと思います。それが出来ないのなら贅沢をするために国会議員になった…と責められても仕方ないと思います。三原じゅん子議員が被害者救済に立ち上がらないなら野々村元議員並みに叩いて税金に寄生する輩を排除して欲しいと思います。
号泣で有名になった野々村元兵庫県議員は議員を辞職、使途不明金は返済する事で一応の幕は閉じました。庶民の血税を貪る輩はとことん突き詰めてケジメをつけて欲しいと思います。政党のバックの無い野々村議員をトカゲの尻尾切りにして問題解決で終わらせて欲しくないと思います。
野々村元兵庫県議員より質の悪い国会議員が好き勝手な事をしています。それは自民党女性部長の三原じゅん子議員です。
三原じゅん子議員の野々村元議員を上回る悪事は…
1、母親を議員宿舎に住まわしていた…
本来議員宿舎とは地方から来る議員のために都心に住居を提供するものであって都心に住んでいる三原じゅん子議員が使うものではないと思います。
2、芸能人の頃から付き合っていた内縁の夫を法律で違反の公設秘書にして税金を懐にいれていた。
3、身内の生活保護受給問題、
三原じゅん子議員の内縁の夫の妹が生活保護を受給しているのを週刊紙に取りあげられたが本人や自民党からは説明がなかった。
三原じゅん子議員と内縁の夫の世帯収入は何千万円にもなるのに身内に生活保護受給者がいる。三原じゅん子議員や内縁の夫は都心に70万円の家賃のマンションに住んでいるのだからマンションの質を落として仕送りしてあげれば良いと思います。
芸人が生活保護不正受給をした時に叩いていた自民党女性議員も身内にはダンマリ…疑惑が出ているのに女性部長になっている…とは国民をなめています。
国民には身内で生活保護受給者の面倒を見るようにいいながらもしかしたらまだ生活保護を受給しているかもしれません。
三原じゅん子議員は野々村元議員より税金に寄生しながら自民党をバックに好き勝手にしているのです。
そんな中で少し前に2CHのニュース速報に子宮勁がんワクチンの薬害で19歳の女子大生が親の顔が分からなくなった…というスレがありました。その中で50人に1人の割合でワクチンの薬害被害にあっているとありました。
かつて三原じゅん子議員は子宮勁がんワクチン接種を奨励していました。しかし問題が出ても知らんぷりです。
本人は良かれと思い奨励しても実際に被害者はいるのです。三原じゅん子議員は都心に70万円のマンションに住みながら三原じゅん子議員の言う事を聞いた人は地獄を見ているのです。
三原じゅん子議員は被害者救済に立ち上がるべきだと思います。それが出来ないのなら贅沢をするために国会議員になった…と責められても仕方ないと思います。三原じゅん子議員が被害者救済に立ち上がらないなら野々村元議員並みに叩いて税金に寄生する輩を排除して欲しいと思います。
2014年07月21日 Posted by プラネマン at 17:12 │Comments(0) │政治、社会
具材のとけ込んだカレーライス380円/マツヤ更北店


マツヤさんのカレーライスは具材のとけ込んだカレーライスという商品でしたがちょっぴり辛めなカレーライスとプリっとした食感のえびカツが最高でマツヤさんのオリジナルな味が良かったと思いました。デザートにアイスクリームを買いました。コンビニで130円が94円でした。
マツヤさんこれからもオリジナルな商品をたくさん出して地域に根付いたお店として頑張って欲しいと思います。
2014年07月21日 Posted by プラネマン at 14:38 │Comments(0) │長野市周辺、マツヤ
えびカツ/マツヤ更北店


マツヤさんのえびカツには3つのこだわりがあり…
1、最新設備を誇るタイの工場で徹底的に管理されたえびを使用している事、
2、えびの比率が約2倍でプリっとした食感が楽しめる事、
3、カレーやタルタルソースとの相性が抜群という事…が売りのえびカツでした。
マツヤさんで買ってきたカレー弁当につけてえびカツカレーにして美味しくいただきました。
僕の自宅に近いのはマツヤ更北店さんですが近くにスーパーがたくさんあり競争が激しいですがえびカツのようにオリジナルな商品をたくさん出して頑張って欲しいと思います。これからも地域に根付いたお店として頑張って欲しいと思います。
2014年07月21日 Posted by プラネマン at 13:27 │Comments(0) │長野市周辺、マツヤ
夏中華そば590円+餃子クーポン券で無料/幸楽苑長野中御所店




冷し担々麺を食べたいと思いましたがお店に行きメニューを見ると夏中華そば590円が美味しそうでした。冷たいラーメンでしたがスープがゴクゴク飲めて美味しかったです。
クーポン券で餃子が無料になり216円お得でした。デザートにバニラアイスをいただき満足出来ました。デザート類も豊富だったので機会があったらまた行ってみたいです。
幸楽苑さんこれからも地域に根付いたお店として頑張って欲しいと思います。
2014年07月21日 Posted by プラネマン at 08:00 │Comments(0) │長野市周辺、ラーメン
元日本Jr.ライト級4位/憧れのボクサー、ブルース京田さん



楠三好ジムにいたのは1988年〜89年の2年間だけでしたがプロデビューしたわけでもない練習生の僕に良くしていただき素晴らしい東京生活になりました。
三好会長に良くしてもらったのは何度かブログアップしましたが先輩ボクサーにも恵まれ充実したジム通いが出来ました。
僕が楠三好ジムに入門した時に代表ボクサーは元全日本Jr.ライト級6位のブルース京田さんでした。最初は恐いイメージがありましたが気さくな先輩でした。
ブルース京田さんはプロレスが好きで共通の話題がありギャグで周囲を笑わせ面倒見が良く飲みに連れて行ってもらいました。そこは僕が卒業した専門学校の同級生やバイト先で知り合った人とは無縁の大人の社交場でした。アンナミラーズに連れて行ってもらったのも良き思い出でした。
楠三好ジムに入門したのは東京に来て3年目でした。その前は大学受験に失敗して十二指腸に潰瘍が出来て体調不良や将来を悲観して引きこもりになりました。
自分でもこれはマズイと思い表に出ようとすると起こる頭痛や下痢や吐き気と戦いながらフリーターをして徐々に社会復帰させて行きました。いつしか当初の目標を忘れバイト先以外では人と話をしない写真が1枚も無い辛い時代でしたが楠三好ジムに入門してブルース京田さんに良くしてもらい東京に来て初めて人の情けのありがたさを感じました。
ブルース京田さんは鍛え上げた素晴らしい身体をしていました。初めてマススパーをした時は顔面に一発もパンチが入らず日本ランカーの凄みを教えてもらいました。僕は後にキックに転向しましたが蹴りがあってもブルース京田さんには勝てる気がしませんでした。
ボクサーとしてはブルース京田さんは全日本新人王になった松戸の佐久間選手を秒殺KOしました。後にビデオで見せてもらいましたが鈍い音がして佐久間選手が前のめりに倒れた戦慄のKOでした。
敗れた試合でしたが飯泉選手との試合がベストマッチだと聞いた記憶があります。
ブルース京田さんは1986年頃にテレビのニュースで現代風のボクサーとして取り上げられました。練習風景や私生活、劇的KOをしてランキングに入った様子が放送されました。
ブルース京田さんは富山県出身で9勝のうち全てがKO勝ちのハードパンチャーです。僕が楠三好ジムに入門してからブルース京田さんの試合を3試合みました。
1回目は1988年11月3日に後楽園ホールで行われたダイナミックグローブで当時Jr.フェザー級1位の高橋ナオト選手とフィリピン同級1位のリトル、バンゴヤン選手の試合のセミファイナルに出場しました。
対戦相手は日本フェザー級10位の植田龍太郎選手でした。植田龍太郎選手はライオンズジム所属で10勝3敗6KO勝ちの当時21歳で鹿児島県出身でした。
薩摩隼人に相応しいエネルギッシュな攻めで惜しくもブルース京田さんは判定負けでしたが植田龍太郎選手はこの試合で自信をつけて世界チャンピオン候補だった杉山満選手を番狂わせで倒し世界ランカーになりました。
僕が見た第2戦目は1989年5月8日に後楽園ホールで行われたトクホンダッシュボクシング第4弾に出場しました。
この試合からブルース京田さんから矢沢比呂士に改名して挑みました。Jr.ライト級8回戦としてトクホンマスドジム所属の吾孫子稔選手と対戦しました。戦績はパンフレットに載っていなかったので分かりませんが惜しくも判定負けでした。
3戦目が1989年10月16日に行われたガッツファイティングでメインイベントが当時日本Jr.バンタム級6位の鬼塚勝也選手対韓国人選手でした。
ブルース京田さんはJr.ライト級8回戦として高橋剛選手と対戦しました。高橋剛選手は協栄ジム所属で戦績が6勝4敗3KO勝ちで石川県出身の新鋭ボクサーでした。残念ながらKO負けでしたがダウンシーンの時に会場から「キャー嫌ー」と黄色い声援が起きていました。
ブルース京田さんは高橋剛選手との試合で引退しました。しかしブルース京田さんはキックの目黒ジムのキックボクサーやシュートボクシングの創始者シーザー武士氏らと交流があり後に目黒ジムから変わった藤本ジムでコーチになりました。
キックボクサーにも打ちやすいパンチの打ち方を指導してチャンピオンになった小野寺選手もブログで評価していました。
思い出すと懐かしさや感謝の気持ちで一杯ですが時間が戻せるならもう一度専門学校時代に戻り三好会長とブルース京田さんのセコンドで後楽園ホールのリングに立ちたかったと思います。
楠三好ジムに入門してブルース京田さんに良くしてもらい東京生活が素晴らしいものになりました。ブルース京田さんのご健康とご多幸を願っています。
2014年07月21日 Posted by プラネマン at 01:00 │Comments(2) │プロボクシング
雑誌・マーシャルアーツNo. 3/1984年7月25日初版

それは昭和の時代のキックボクシングの低迷期に発行されたマーシャルアーツという雑誌でした。
すでに創刊号とNo.2はブログアップしましたが今回は1984年7月25日初版で今から30年前の今頃の時期に発売されたマーシャルアーツNo.3をブログアップしたいと思います。
巻頭特集はマーシャルアーツ、イン、マイアミという事で1984年3月29日にアメリカ、マイアミで開催されたWKAの世界3大タイトルマッチの特集でした。
WKA,Sライトベビー級ブレッド、ロイヤーズ選手対ラリー、ニコルス選手の対戦、
同Sミドル級ロブ、カーマン選手対ジョン、モンカイヨ選手の対戦、
同S、ライトベビー級ドン、星野、ウィルソン選手対デニス、アレクシオ選手の対戦が連載されていました。
佐山聡氏の「動的ボディ、ウェイト、トレーニング」
ジャッキー・チェン氏の五福星の特集でこの映画にはベニー、ユキーデ氏が出演したそうです。
特集「キックボクシングは今」で当時の関係者にインタビューした特集がありました。
最近の試合から…という事で士道館3周年記念興行の特集がありメインがUS1万ドル賞金マッチでWKA世界フライ級チャンピオン高橋宏選手対新格闘術フライ級チャンピオン松田利彦選手の対戦がありました。当時の米ドルのレートはいくらか分かりませんがバブル前だったので結構な金額になったと想像します。
インストラクター最前線として黒崎健時氏のインタビュー、
世界のファイターとしてロブ、カーマン選手の特集とシンサック、ソーシリパン氏のキックミットの使い方講座
思い出の名勝負として昭和47年4月30日に当時全日本バンタム級チャンピオンの大沢昇選手ら6選手がタイに遠征、その時に行われたチャンデット、ウィラポンの観戦記でした。
道場訪問として大阪市の正道会館総本部でK-1が行われる前のサバキの頃の特集でした。最後が格闘技にかける…という特集でキックボクシングの伊原信一氏のインタビューでした。
当時僕は17歳、自分が進みたい進路がありながらも格闘技をやってみたいという気持ちもありました。希望の進路には進む事は出来ませんでしたがプロレスを含め格闘技観戦が100回と大阪でキックボクシングのリングに立ててまずまずだったと思います。
厳しい時代に格闘技を支えてくれた先人の皆様のご多幸と格闘技界の発展を願っています。
2014年07月20日 Posted by プラネマン at 22:28 │Comments(0) │格闘技関連の本
レッドブル軍団のテーマ/プロレス入場曲
http://m.youtube.com/watch?v=PgCmluGmKeA&fulldescription=1&client=mv-google&gl=JP&guid=&hl=ja
僕は若い頃プロレスや格闘技観戦が好きでしたが自分のブログに後楽園ホールや東京ドームの事を書くと懐かしくなりYouTubeでプロレスラーのテーマソングを検索して見ました。
僕は新日本プロレスが好きだったので全日本プロレスより新日本系の方が印象深いですが検索しているうちに旧ソ連のレッドブル軍団のテーマがあり懐かしく思いました。
格闘技王国の旧ソ連がペレストロイカで新日本プロレスと提携してオリンピック級のレスラー、柔道家を送りこんできたのは1989年当時としては驚きでした。新日本プロレスは米ソ日3ヶ国対抗戦として東京ドームで興行を行いました。
さすがに東京ドームでの興行は厳しいのではないか…と思いましたが試合内容も良く観客数も新学期が始まって慌ただしい中の平日なのに想像より多く大成功と言える興行でこれが新日本プロレスの恒例の1・4東京ドーム興行のルーツになる興行でした。
旧ソ連選手の活躍が大成功の要因だったと思います。この興行を機会によりプロレスが好きになり旧ソ連選手が出場する大阪城ホールまでプロレスファンでいう密航をして見に行きました。後に僕は41都府県旅をしましたがこの大阪密航が旅のルーツでした。
ハシミコフ選手の水車落とし、
ザンギエフ選手のアマレス仕込みのテクニック、
ウラジミル、ベルコビッチ選手の豪快な負け役、
チョチョシビリ選手の裏投げ、
旧ソ連選手は皆個性的でしたが大阪城ホールで見たコーカサスの毒蛇、エブロエフ選手が変幻自在な関節技でマサ斎藤選手を苦しめたのは驚きで旧ソ連からどんな選手がくるのか楽しみでした。
その後旧ソ連のレッドブル軍団はプロレスに慣れるにしたがい凄みが消えて行きましたが25年振りにレッドブル軍団のテーマを聞くと新しいスタイルのプロレスが出来る…というワクワクした気持ちや新しい扉が開かれるような期待が甦りテンションが上がってきます。
その後僕はプロレスや格闘技観戦を100回ほど行いキックのプロのリングで3戦出来て空手道場がプロレスラーを呼んで異種格闘技戦を行った前座でキックの試合が出来て格闘技に関しては満足出来ました。現在は絵を描くとかピアノや音楽に興味があるのでレッドブル軍団のテーマを支えに新しいライフスタイルを築きたいな…と思っています。
25年過ぎても色褪せない始まりを象徴する曲だと思いアップしてくれた人に感謝したいと思います。
僕は若い頃プロレスや格闘技観戦が好きでしたが自分のブログに後楽園ホールや東京ドームの事を書くと懐かしくなりYouTubeでプロレスラーのテーマソングを検索して見ました。
僕は新日本プロレスが好きだったので全日本プロレスより新日本系の方が印象深いですが検索しているうちに旧ソ連のレッドブル軍団のテーマがあり懐かしく思いました。
格闘技王国の旧ソ連がペレストロイカで新日本プロレスと提携してオリンピック級のレスラー、柔道家を送りこんできたのは1989年当時としては驚きでした。新日本プロレスは米ソ日3ヶ国対抗戦として東京ドームで興行を行いました。
さすがに東京ドームでの興行は厳しいのではないか…と思いましたが試合内容も良く観客数も新学期が始まって慌ただしい中の平日なのに想像より多く大成功と言える興行でこれが新日本プロレスの恒例の1・4東京ドーム興行のルーツになる興行でした。
旧ソ連選手の活躍が大成功の要因だったと思います。この興行を機会によりプロレスが好きになり旧ソ連選手が出場する大阪城ホールまでプロレスファンでいう密航をして見に行きました。後に僕は41都府県旅をしましたがこの大阪密航が旅のルーツでした。
ハシミコフ選手の水車落とし、
ザンギエフ選手のアマレス仕込みのテクニック、
ウラジミル、ベルコビッチ選手の豪快な負け役、
チョチョシビリ選手の裏投げ、
旧ソ連選手は皆個性的でしたが大阪城ホールで見たコーカサスの毒蛇、エブロエフ選手が変幻自在な関節技でマサ斎藤選手を苦しめたのは驚きで旧ソ連からどんな選手がくるのか楽しみでした。
その後旧ソ連のレッドブル軍団はプロレスに慣れるにしたがい凄みが消えて行きましたが25年振りにレッドブル軍団のテーマを聞くと新しいスタイルのプロレスが出来る…というワクワクした気持ちや新しい扉が開かれるような期待が甦りテンションが上がってきます。
その後僕はプロレスや格闘技観戦を100回ほど行いキックのプロのリングで3戦出来て空手道場がプロレスラーを呼んで異種格闘技戦を行った前座でキックの試合が出来て格闘技に関しては満足出来ました。現在は絵を描くとかピアノや音楽に興味があるのでレッドブル軍団のテーマを支えに新しいライフスタイルを築きたいな…と思っています。
25年過ぎても色褪せない始まりを象徴する曲だと思いアップしてくれた人に感謝したいと思います。
2014年07月20日 Posted by プラネマン at 21:25 │Comments(0) │プロレス
89格闘衛星・闘強導夢〜プロリンピック・part 1〜から25年


専門学校時代の同級生と水道橋で待ち合わせして時間があったのでお茶をする前に後楽園ホールと同じ敷地内にあった東京ドームに行きました。その日は野球の試合はなかったもののさすがは東京で多くの人でがありました。
その時に東京ドームで行われた格闘技興行の話をしました。その時初めて東京ドームに行ったのは新日本プロレスの興行だったな…と思い出しました。
その興行は1989年の4月24日に開催された「89格闘衛星・闘強導夢〜プロリンピック・part1」でした。
当時前田日明選手が率いるUWFがブームで老舗の新日本プロレスはUWFに押され厳しい展開でした。猪木氏を尊敬していた僕はUWFの登場を苦々しく思っていましたがそんな頃新日本プロレスにペレストロイカで旧ソ連から提携の話がありました。
アマレス、柔道、サンボなど格闘技王国の旧ソ連の格闘家が外貨獲得のためにプロレスをする…という話が持ち上がりました。
新日本プロレスは4月24日に東京ドームで日本、アメリカ、ソ連の3ヶ国対抗戦を行うプランをぶちあげました。当時は映画ロッキーの中で米ソ対決がありましたが実現させてしまうのが猪木氏の凄いところだと思いました。
新日本プロレスの2月の両国国技館興行に旧ソ連から3選手が出場しました。若手レスラーを旧ソ連の選手はアマレスの技で圧倒して凄みを見せましたが旧ソ連の選手は殴ったり蹴ったりに耐えられるのか…アマレススタイルで東京ドームの大会場で受けるのか…そんな心配があり東京ドームで野球以外に興行を打ち大丈夫なのか…借金を抱えるのではないか…ファンとしては期待より不安が多かった興行でした。
試合当日に東京ドームに行くとリングが米粒のように見えてビジョンがなければ試合が分からず大丈夫か心配になりました。天井が高すぎて熱気が充満せずこれはヤバイのではないか…心配になりました。
僕はプロレスや格闘技興行に100回ほど足を運びましたがその中で25年過ぎた現在でも印象深い興行でした。
アメリカから参戦した選手もレスリングや格闘技の強そうなショーマンでない選手が集いロープに振らないピリピリした試合展開に感じました。
プロレスが好きだと言えば必ず八百長のどこが面白い…と言われますがブックがあっても格闘技の土台のある選手同士が技や意地を見せ合うプロレスが見たかったので緊張感がある展開をワクワクしながら見ていました。
個人的に良かったのが橋本真也選手対ザンギエフ選手の対決で橋本真也選手が柔道の払い腰で投げたシーンは感動的でした。
ハシミコフ選手対ビガロ選手もビガロ選手の巨体が持ち上がり水車落としで叩きつけた時は拳を上げてハシミコフコールをしていました。凄みのある技や痛みが伝わってくるプロレスが見たかったのでハシミコフ選手には大感激でした。
メインは猪木氏と柔道のショータ、チョチョシビリ選手の異種格闘技戦でした。ショータ、チョチョシビリ選手はミュンヘンオリンピックのメダリストでした。ロープを外しての特別ルールでしたが猪木氏がまさかの裏投げを喰らいKO負けになりました。
格闘技の実力者が行うプロレスが見たくて新日本プロレスの底力や新しいスタイルの確立に期待してさらにプロレスが好きになりました。
この東京ドーム興行に影響され自分が住んでいる地域から違う地域にプロレス観戦をする「密航」を何度もするようになりました。バイト代の多くはプロレス観戦に使われるようになりました。
結局旧ソ連の選手は試合を重ねるにつれプロレスに染まり凄みがなくなり1年もしないうちに消えてしまいました。新日本プロレスでは僕が見たかった新しいスタイルは実現されず僕も自分で格闘技を始めるとプロレスに対する興味が失せて行きました。
しかしこの興行は格闘技興行が東京ドームでも出来る事が分かった価値ある最初の一歩だったと思います。その後のUWFもK-1の東京ドーム興行もこの一歩がなければ無かった価値ある興行でそれをリアルタイムで見れて良かったと思います。
25年過ぎたのは早いな…と思いますが少年時代に大好きだったプロレスにどっぷりつかれてそれはそれで良かったと思いました。
2014年07月20日 Posted by プラネマン at 20:06 │Comments(0) │プロレス
後楽園ホール、観戦回数80回




仕事が終わり流れ解散になり同僚と別れました。せっかく東京に来たので寄り道をして帰ろうと思いました。その日後楽園ホールでプロボクシングの興行があったので隣の東京ドームで野球の試合もなく混雑しないと思ったので後楽園ホールに行こうと思いました。
僕は若い頃3度の飯より格闘技が好きで仕送りやバイト代のほとんどを格闘技観戦やボクシングジムの会費や交通費に使っていました。学校やバイト先などの生活の拠点を除き自分の意志で行った場所としては後楽園ホールが一番通った場所だと思います。
後で調べて分かりましたが最後に後楽園ホールに行ったのが1995年10月だったので19年ぶりの後楽園ホールでした。
19年も過ぎると回りの様子もすっかり変わり後楽園ホールの中に入っても卒業した高校に何年ぶりかで行った時の懐かしさは感じませんでしたが試合が進むに連れて活気が出てきてこの活気は何年過ぎても変わらないな…と忘れていたものを思い出させてくれ気持ちが若い頃に返った感じでした。
押し入れの中に残っていた格闘技観戦の半券の中から後楽園ホールに何回行ったか数えてみました。
1987年、僕は二十歳でしたが大学受験に失敗して自分が何をしたいか分からなくなりフリーターをしながら模索していました。東京を離れようかと考えましたが思い出作りのつもりで訪れた後楽園ホールでキックを3回観戦して東京に残り格闘技に関わりたいと思うようになりました。
1988年専門学校入学と同時に自分を変えたくて格闘技を始めようと思い後楽園ホールに通うようになりました。キック7回、ボクシング9回、プロレス1回計17回観戦しました。
1988年、専門学校2年生で卒業の年になりました。キック7回、ボクシング5回、プロレス4回、空手とプロカンフーをそれぞれ1回、18回観戦しました。
1990年、専門学校を卒業して入社した会社で大阪に配属になりました。思い出作りで後楽園ホールに通いつめキック9回、ボクシング10回、プロレス8回、シューティング1回…配属になった7月までに28回通いました。
1991年は大阪に住んでいたので後楽園ホールはキック1回、
92年はキック2回、ボクシング2回で計4回、
93年はキック3回、ボクシング1回で計4回、
94年はキック1回、その他1回で計2回、
95年はMAキックが2回で2回観戦しました。最後の観戦になったのは同年10月のMAキックの試合でした。
この頃僕は長野オリンピックのもの凄い特需の影響で仕事が忙しくなり家を建てる事になり大阪時代に始めたキックを辞める事にしました。同時に大阪時代の先輩たちも皆引退して後楽園ホールや格闘技が疎遠になって行きました。
20世紀に79回後楽園ホールで格闘技を観戦して4月16日の分を合わせ80回の観戦になりました。
僕は彼女もいなくてギャンブル、タバコはしなくて酒もバイト先かジムの先輩に誘われた以外はほとんど飲まなかったので格闘技に多くのエネルギーを費やしたと思います。
若い頃にやり残した事も多かったですが東京時代は渋谷の専門学校に通い武蔵小山のジムに通い六本木でバイトしてバイト代で後楽園ホールに通い東京生活を満喫出来たと思います。
後楽園ホールはいつの時代も格闘技の殿堂であって欲しいと思います。
2014年07月20日 Posted by プラネマン at 17:26 │Comments(0) │格闘技の話題
バスケット統合問題/bj 側は企業チーム参加を拒否


対して7月20日の読売新聞スポーツ面に小さく「bjリーグが企業チーム参加を拒否」とありました。
読売新聞の扱いを見ていると企業チームの扱いが大きく経済力のある企業チームを担いでいるのが分かりますが個人的にはbjに有利に運んで欲しいな…と思います。
僕は当初外国人が多いbjよりJBL派でしたがJBLのチームが地元長野市に来た事がありました。しかし残念ながらチケットは買えず入場出来ませんでした。
会場の中には接待でタダ券で観戦した人もいたのかな…と思うと何か悲しくなりそのチケット代にプラスしてウォリアーズのチケットを2枚買い楽しめました。
企業チームは福利厚生として経費が計上出来て年間活動費が4〜5億あると新聞記事に書いてありました。プロ化すれば採算性を株主や銀行から問われる…とあり選手も引退後に企業に残れるならその方が良いと思う選手もいると思います。
bjリーグも採算割れしているチームもあるとは思いますがウォリアーズは成功している部類に入ると思います。ウォリアーズを見てバスケットボールに興味を持った人や地域の娯楽の提供等企業チームが出来ない貢献もあり統合でそれが切り捨てられたら切ないな…と思います。
バスケットボールは高身長のイケメンが多く展開が激しく変わり部活の経験者も多く市場的には野球やサッカーに次ぐスポーツになる可能性もあると思います。
僕がバスケットボールに興味を持った頃は毎週のようにスポーツ専門チャンネルで両リーグの試合が放送されていましたがここ数年はバスケットボールの試合を見る機会がなく残念に思います。
bjは企業チームが嫌で独立して企業チームは自分たちが本道だという自負があると思いますがどちらかが譲歩しなければいけないと思います。
個人的には企業チームがプロ化して1部と2部化して入れ替え戦ありにしてもらいバスケットボールの試合結果が普通にニュースで放送されトップの選手には見合った報酬やマスコミへの出演の機会が増え日本代表なら一般の人が誰でも知っているようにバスケットボール界のステータスが上がるようになって欲しいな…と思います。
ウォリアーズとNBLのチームがプレシーズンマッチで対戦予定で両リーグの垣根が崩れてきた感じがします。よい形でまとまり普通に地上派で試合がみられる日が来ることを願っています。
2014年07月20日 Posted by プラネマン at 15:22 │Comments(0) │バスケ BJリーグ
信州ブレイブウォリアーズ2014〜15、ホームゲーム日程発表/ホワイトリング開催に期待!

対戦相手や入場料金は未定ですが北信開催は…
10月18日〜、
11月15日〜、
12月6日〜、
2月7日〜、千曲市が4回、
1月17日〜に2年ぶりのホワイトリング開催の予定です。
日程的には創立以来初の小諸開催があり4月11日〜が会場未定で願わくば東和田の運動公園か戸倉の北信開催をして欲しいと思います。
今回の日程を見て特に嬉しかったのは2年ぶりのホワイトリング開催が決まった事でした。
僕はウォリアーズを観戦する時は東和田の運動公園に行く事が多いです。以前にウォリアーズのホワイトリング開催希望をブログに書きましたが東和田運動公園に実際に足を運んで感じた事は…
1、駐車場が狭く当日券希望のお客さんは帰ってしまうのではないか…という心配、
2、運動公園周辺は生活道路で渋滞が起きやすい…近隣の商業施設への無断駐車が起きやすく近隣市民や商業施設に歓迎されなくなる可能性がある…
3、入場料金が当日券2500円で家族で気軽に観戦出来ない…
4、2階自由席ではカバン等の物を置き場所とりをする人がいるが僕みたいに気が弱い人は詰めてくれ…と言い難い…スタッフがこまめに巡回して詰めるように言ってくれれば良いのですが手が回らないようです。
5、以前相手ブースターと隣り合わせになった事がありました。Jリーグのサポーターみたいにトラブルになる事はないと思いますが基本的にアウェイ席は用意してあげた方が良いと思います。
4月に千曲市と東和田運動公園と2週続けて北信開催がありました。当日券で行けば2週で一万円以上かかり家族連れ等が気軽に観戦出来ないと思います。
2年前のホワイトリング開催の時は3階席の入場料が2日通しで1500円位だった気がします。3階席でも傾斜があり見やすかったです。
ホワイトリング開催なら駐車場問題や渋滞問題を解決出来て入場料を安く出来て家族連れを呼びやすく新規のブースターになってブースタークラブの入会やグッズの販売にも期待出来てアウェイ席の問題も解消出来ると思います。
前回のホワイトリング開催は大雪で千葉相手に敗れ散々な観戦でしたがその頃とメンバーや監督が違うので期待出来ると思います。ホワイトリング開催をバネにさらなるウォリアーズの活躍を願っています。
2014年07月20日 Posted by プラネマン at 13:28 │Comments(0) │信州ブレイブウォリアーズ
アイスホッケー、アジアリーグ2014〜15・日程決定/ビックハット開催予定は無し…

アイスホッケーは日本、韓国、中国の他国間リーグで開催されていますが昨シーズンの日本4チーム、韓国3チーム、中国1チームに対して今季よりロシアのサハリンが加入、全9チームで9月6日より開催されます。
アジアリーグとしての大きな大会は11月15日から横浜で日本チーム同士が1月24日に東京で北海道対韓国の結集試合があります。例年クリスマスに札幌で開催されていた結集試合は行われないようで業界の縮小を感じるようで淋しく思います。
注目のビックハット開催ですが現時点では予定が無いようで淋しく思います。最後にアジアリーグをビックハットで見たのは東北対シャークス戦でしたが平日ながら千人以上の観客が集まりファンや選手の開拓のため願わくばビックハットで結集試合を行って欲しいと思うのですが…アジアリーグ関係者には検討して欲しいと思います。
長野県アイスホッケー連盟のホームページを見るとアイスホッケーでビックハットで開催される全国大会規模の開催予定はなく12月はフィギュアスケートのイベントで使えず3月2日にクローズになるそうです。
ビックハットでのアイスホッケーの扱いは残念なものがありますが昨シーズンから地元サッカーチームAC長野パルセイロがアイスホッケー部門を立ち上げました。まだ高校生が多い若いチームですがアイスホッケー界の底上げのためにも頑張ってもらい行く行くはアジアリーグに参戦して欲しいと思います。
とまれアイスホッケー界の盛り上がりを願っています。
2014年07月20日 Posted by プラネマン at 11:20 │Comments(0) │アイスホッケー
ワールドカップ、ブラジル大会閉幕…

朝起きて仕事に行く前にテレビを付けると速報で結果が分かってしまい見たい気持ちが無くなったりオリンピックもそうですが肉体労働の仕事が辛くなり深夜や早朝にテレビを見る気力がなく結局見たのは日本対コートジボワール戦だけでした。
コートジボワール戦は残念でした。1点入れた時はやった!と思ったものの連続失点をしてまさかの敗戦…もう少し踏ん張れなかったのか…という悔しさを感じた試合でした。
僕はサッカーに縁の無い生活をしていたのでサッカーが面白いな…と初めて思ったのは日韓大会からで当時は地元にチームが無かったので京都サンガのファンクラブに入りました。
南アフリカ大会は選手がインタビューでJリーグも見て欲しい…と言ったのに影響され再び京都サンガのファンクラブに入会、同時に地域リーグの試合も観戦するようになり日本代表の活躍によってサッカーがより身近に感じられるようになりました。
日本代表の活躍は子供たちのサッカー人口を増やし青少年の育成に良い影響を与えるだけでなく家電品や関連グッズが売れたり人が衛星放送の場所やスポーツカフェに繰り出し経済を活性化させる働きがあるのでもっと頑張って欲しかった…と思います。
南アフリカ大会に比べヨーロッパで活躍する日本人選手が増えたので期待もあった大会でしたが世界との壁を痛感した大会でした。次回のロシア大会はブラジル大会でアジア勢が不調だったのでアジア枠が少なくなる事が予想され厳しい闘いになると思います。関係者には出場するだけでなく勝つことを目標としたチーム作りや若手の育成を期待したいと思います。
2014年07月20日 Posted by プラネマン at 10:10 │Comments(0) │サッカーその他
楽天、球宴前最下位で折り返し

7月16日にオールスターの前の日程が終了しました。楽天は35勝48敗で5位と2ゲーム差の最下位に終わりました。
個人的な交流戦終了からオールスター前の観戦は…
6月28日の日ハム8回戦は藤田選手のエラーが失点につながり敗れ7月15日のオリックス戦は苦手な西投手を打ち砕き価値ある勝利でした。
交流戦からオールスターの間に大久保監督が昇格する出来事がありました。
松井裕投手がフレッシュオールスターに登板したり打撃ランキングの7位が銀次選手、9位が藤田選手が入りホームランランキングの2位がジョーンズ選手が入っています。藤田選手、銀次選手と繋ぎジョーンズ選手とラッツ選手で返すパターンに期待したいと思います。
借金13は簡単には減らないと思いますが3位を目指して頑張って欲しいと思います。オールスター後の楽天の盛り返しを期待したいと思います。
2014年07月20日 Posted by プラネマン at 09:11 │Comments(0) │楽天イーグルス
元おにゃんこクラブ、新田恵利さんが当時を暴露「裏のおにゃんこクラブはみんな彼氏がいた…」
http://m.youtube.com/watch?v=BUjTDVcQa8w 2CHのニュース速報、芸スポ番に元おにゃんこクラブの新田恵利さんのスレがありました。
13日にTBS系で放送された「さんまのスーパーからくりテレビ、芸能界替え歌王スペシャル」に新田恵利さん他2名の元メンバーが出演、30年前のセーラー服を来て替え歌を歌いました。
その中で「40代をへこたれないで」「本当のおにゃんこクラブ」として当時を替え歌で歌い「新田恵利さんは当時ファンに極秘で放送作家と付き合っていてバレてしまった…裏のおにゃんこクラブは全員彼氏がいた…」と暴露してその事で論議になっていました。
おにゃんこクラブは僕が高校3年生だった1985年に設立されました。当時僕は大学進学希望でしたが実力と理想が合わず悩んでいておにゃんこクラブに夢中になることはありませんでしたが社会現象としては印象に残る存在でした。
その中で新田恵利さんは特に人気があり出す曲がオリコンの1位になり売れっ子でした。当時新田恵利さんは自転車の椅子の部分が盗まれた…というエピソードを聞いた覚えがあるほど人気がありました。
僕はおにゃんこクラブの出来た翌年の1986年3月に高校を卒業して東京に行きました。当時は東部東上線沿線に住んでいましたが池袋で新田恵利さんの表紙のオリコンの雑誌が山積みになっていたのが東京で見た最初に印象に残った事でした。
2CHのスレに放送された動画があったので見ましたが何か残念な感じがしました。
おにゃんこクラブは素人ぽさを売りにしていました。正直な話で新田恵利さんの歌はテレビで放送するには醜いな…と思いましたが実際に人気があったのでそれも個性だと思いました。
新田恵利さんは作詞家を目指す…という内容のテレビ番組を見た記憶がありましたが久しぶりに見た新田恵利さんは歌が上達した訳ではなく役者や作詞家として新境地を開いたわけではなく芸能人としてみれば進化していない事が残念でした。
翌日会社で新入社員におにゃんこクラブを知っているか?と聞いてみましたが名前はなんとなく聞いた事はあるがメンバーまで分からない…という事でした。
考えてみれば昭和42年生まれの僕が昭和40年代にヒットした芸能人を知らないように現在の若い人の中ではおにゃんこクラブは話題にもならない事を感じました。
おにゃんこクラブや新田恵利さんのリアルタイムでのファンも新田恵利さんの出演に懐かしさは感じても子供がいたり仕事が多忙になったり職場や社会的な地位が出来て若い頃のように新田恵利さんをプッシュ出来ないと思います。
そんな中で昭和の話を切り売りしている新田恵利さんに悲しいものを感じました。YouTubeで見たおにゃんこクラブのファイナルコンサートでメンバーが涙ながらに「じぁあね」を歌う場面は感動的でした。
かつてのおにゃんこは飛ぶ鳥を落とす勢いがあったので彼氏がいても不思議ではありませんが涙ながらに「じぁあね」を歌った一般人になったメンバーも自分と同じように話さなくても良いのではないか…と思いました。
人気が無かったメンバーが暴露本を出すのは分からなくもありませんが新田恵利さんが下世話なおばさんのようになっていたのは時の流れの非情さを物語っているようでした。
13日にTBS系で放送された「さんまのスーパーからくりテレビ、芸能界替え歌王スペシャル」に新田恵利さん他2名の元メンバーが出演、30年前のセーラー服を来て替え歌を歌いました。
その中で「40代をへこたれないで」「本当のおにゃんこクラブ」として当時を替え歌で歌い「新田恵利さんは当時ファンに極秘で放送作家と付き合っていてバレてしまった…裏のおにゃんこクラブは全員彼氏がいた…」と暴露してその事で論議になっていました。
おにゃんこクラブは僕が高校3年生だった1985年に設立されました。当時僕は大学進学希望でしたが実力と理想が合わず悩んでいておにゃんこクラブに夢中になることはありませんでしたが社会現象としては印象に残る存在でした。
その中で新田恵利さんは特に人気があり出す曲がオリコンの1位になり売れっ子でした。当時新田恵利さんは自転車の椅子の部分が盗まれた…というエピソードを聞いた覚えがあるほど人気がありました。
僕はおにゃんこクラブの出来た翌年の1986年3月に高校を卒業して東京に行きました。当時は東部東上線沿線に住んでいましたが池袋で新田恵利さんの表紙のオリコンの雑誌が山積みになっていたのが東京で見た最初に印象に残った事でした。
2CHのスレに放送された動画があったので見ましたが何か残念な感じがしました。
おにゃんこクラブは素人ぽさを売りにしていました。正直な話で新田恵利さんの歌はテレビで放送するには醜いな…と思いましたが実際に人気があったのでそれも個性だと思いました。
新田恵利さんは作詞家を目指す…という内容のテレビ番組を見た記憶がありましたが久しぶりに見た新田恵利さんは歌が上達した訳ではなく役者や作詞家として新境地を開いたわけではなく芸能人としてみれば進化していない事が残念でした。
翌日会社で新入社員におにゃんこクラブを知っているか?と聞いてみましたが名前はなんとなく聞いた事はあるがメンバーまで分からない…という事でした。
考えてみれば昭和42年生まれの僕が昭和40年代にヒットした芸能人を知らないように現在の若い人の中ではおにゃんこクラブは話題にもならない事を感じました。
おにゃんこクラブや新田恵利さんのリアルタイムでのファンも新田恵利さんの出演に懐かしさは感じても子供がいたり仕事が多忙になったり職場や社会的な地位が出来て若い頃のように新田恵利さんをプッシュ出来ないと思います。
そんな中で昭和の話を切り売りしている新田恵利さんに悲しいものを感じました。YouTubeで見たおにゃんこクラブのファイナルコンサートでメンバーが涙ながらに「じぁあね」を歌う場面は感動的でした。
かつてのおにゃんこは飛ぶ鳥を落とす勢いがあったので彼氏がいても不思議ではありませんが涙ながらに「じぁあね」を歌った一般人になったメンバーも自分と同じように話さなくても良いのではないか…と思いました。
人気が無かったメンバーが暴露本を出すのは分からなくもありませんが新田恵利さんが下世話なおばさんのようになっていたのは時の流れの非情さを物語っているようでした。