日本名曲アルバム/2時間スペシャル

この日は平日だったので途中からの観賞でしたが…
落陽、昭和48年
大阪ラプソディー、昭和51年
長崎の鐘、昭和24年
矢切の渡し、昭和58年、
九十九里の詩、平成4年
そして神戸、昭和47年
赤坂の夜はふけて…昭和40年
恋のまち札幌、昭和47年、この歌は八代亜紀さんも歌いました。
長良川演歌、昭和54年
ここから洋楽特集になりましたが杜の音シンガーズの皆様の歌の披露がありました。このグループは東京芸術大学で声楽を学んだ大学院生や卒業生中心の極まった歌声が素晴らしかったです。
ボーイバンド
クワイ河マーチ、
デイ、ドリーム、ビリーバー、
遥かなる夢…この歌は伊藤ゆかりさんと娘さんも杜の音シンガーズさんと歌いました。
ミスターベースマン、
百万本の薔薇、昭和62年、伊藤ゆかりさんが歌いました。
監獄ロック
今度は女性20人程のグループが出場、可愛いベイビーを歌いました。
恋は水色を桐朋学園大の合唱の皆様が歌いました。
続いてCHOR,STELLAの皆様がバナナボードとワシントン広場の夜はふけてを歌いました。
最後にヘイ、ポーラと遠き山に日は落ちてを歌いあっという間に番組は終了しました。
本格的な合唱団の皆様がより知っている歌を歌うと素敵な響きや良さがありました。出演された合唱団の皆様、素晴らしい歌声をありがとうございました。皆様のこれからの活躍に期待しています。
2015年10月14日 Posted by プラネマン at 22:21 │Comments(2) │歌番組テレビ放送
プレミアムソングス、作曲家筒美京平特集/BS 日テレ、歌謡プレミアム

この日は平日だったため8時15分頃帰宅しました。1971年にヒットした「また逢う日まで」が歌われていました。
続いて1972年11月20日に放送された麻丘めぐみさんの「わたしの彼は左きき」の当時のフィルムが放送され1985年4月8日に放送された斎藤由貴さんの卒業が当時のフィルムで放送されました。
僕は昭和42年生まれで現在47歳、麻丘めぐみさんはまだ5歳で記憶になかったですが斎藤由貴さんはリアルタイムで見ました。現在見直してもキラキラした瞳が印象的でした。
続いて1976年にオリコンランキング4位を獲得した太田裕美さんの木綿のハンカチーフを伊藤美裕さんがフルコーラスで歌いました。
1974年にオリコンランキング1位になった郷ひろみさんの「よろしく哀愁」を花岡直道さんが歌いました。
稲垣潤一さんのドラマティクレインを現在の本人が歌いました。この曲は僕が中学生の頃にヒットした曲で大人の恋を都会的に歌い好きでした。中学生だった僕はこの歌のような大人の恋がしたい…と当時はこれから開く青春の扉に胸弾ませていた事を思い出しました。
続いて1984年にヒットした東京JAPの摩天楼ブルースの当時の映像が流れました。この歌がヒットした時僕は高校生でしたがこの歌を聞いて都会への憧れを募らせていた事を思い出しました。
司会者が東京JAP出身でみんな自己主張をしたくてバンドを始めますが創作力やオリジナリティが無く上手くいかない…と話していました。東京JAPで摩天楼ブルースを貰った時に曲にあって自分にないものがありそのギャップで苦労した…とエピソードを話していました。ボーカルの人はイケメンで凄いオーラを出していました。
続いて1978年12月11日に放送されたフィルムで大橋純子さんが黄昏マイラブを歌いました。
1978年に筒美京平氏がレコード大賞作曲賞を獲得した飛んでイスタンブールを松川未樹さんが歌いました。世界的なエキゾチックさが当時斬新で僕も当時大学生だった親戚のお兄さんの部屋で庄野真代さんの歌を聞き斬新さに感動した事を思い出しました。
最後に1968年にオリコンランキング1位になったブルースライトヨコハマを多岐川舞子さんが歌いました。筒美京平氏初のレコード大賞作曲賞受賞曲で出世作でした。
世代や時間が過ぎても色あせない現在聞いても凄さが伝わってくる筒美京平氏の凄さを感じた1時間でした。まだまだ筒美京平氏のヒット曲があると思いますが続編を期待したい素晴らしい番組でした。
2014年08月19日 Posted by プラネマン at 14:50 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
徳光和夫名曲にっぽんに太田裕美さん出演/BS ジャパン

初めて見る番組ですが新聞のテレビ欄で偶然太田裕美さんの名前を見つけ見たくなりました。
太田裕美さんはかつて木綿のハンカチーフ他数々のヒット曲で有名ですが僕が中学1年生だった1980年に偶然太田裕美さんがさらばシベリア鉄道を歌うのを見ました。
凄い躍動感のある曲と異国情緒を感じさせるスケールの大きな歌詞に感動して初めて買ったレコードが太田裕美さんのさらばシベリア鉄道でした。
僕が高校2年生だった1984年に部活をサボって薬師丸ひろ子さんのメインテーマという映画を見に行きました。
その時薬師丸ひろ子さんのお姉さん役で太田裕美さんが出演していました。メインテーマは17歳だった僕に影響を与えた映画でしたが太田裕美さんと薬師丸ひろ子さんが那覇市国際通りを歩くのが楽しそうで印象的でした。そんな事を考えながら太田裕美さんを見るのを楽しみにしていました。
番組はまずオープニングに太田裕美さんが夜景をバックにピアノで雨だれを弾き語りました。
続いてデビュー4年目になる平尾昌晃さんの音楽学校出身の西田あいさんが「月見草」を松原健之さんが「ふるさとの空は遠く」を歌いました。
インタビューがあり太田裕美さんは恩師として筒美京平さんの名前を上げていました。
筒美京平さんはメディアにあまり出演せずに実在しないのではないか…と言われていますが太田裕美さんはよく会いかつて太田裕美さんが「いい女になりたい…」と言ったのを聞き「いい女って何?」と言い考えさせテーマを投げる事がある…と話していました。
筒美京平さんのメドレーが歌われ…
太田裕美さんが昭和51年、赤いハイヒール、
西田あいさんが昭和47年、17歳、
松原健之さんが昭和46年、また会う日まで、
司会のあさみちゆきさんが昭和53年、東京ララバイ、
太田裕美さんと松原健之さんが昭和50年、木綿のハンカチーフをデュエットしました。
松原健之さんのインタビューがあり恩師に作詞家の茜まさおさんの名前をあげました。
松原健之さんは1997年に放送されたチャレンジ歌バトルに出演、グランプリを獲得しましたが表彰した平尾昌晃さんに対して横柄な態度をとったお宝映像が流れました。
茜まさおさんの音楽学校からは五月みどりさんなど有名人が卒業していますが茜まさおさんからデビューのお墨付きをもらった時に「茜まさおさんより有名な先生に見てもらいたい…」と憎まれ口を叩いたエピソードが語られました。
茜まさおさんが松原健之さんにレッスンした霧の摩周湖を歌いました。
続いて西田あいさんのインタビューがあり憧れの歌手に西田佐知子さんの名前をあげました。
西田あいさんの芸名の由来は恩師の平尾昌晃さんぎ西田佐知子さんに憧れそこから西田という名前をつけたそうです。平尾昌晃さんからはとにかくヒロインしろ…とアドバイスを受けたそうです。「アカシアの雨が止むときに」を歌いました。
続いて司会のあさみちゆきさんの歌巡りとして府中市に行き「歌のふるさとフータロウ」さんに行きました。
夕方は音楽教室、夜は飲み屋を営業、マスターはかつてはプロデビューの話があったバンドマンでしたが病気になり話が流れました。しかしマスターは悔いは残っていなくて病気になった故に音楽教室の素晴らしい仲間に出会え感謝していると話していました。
音楽教室のメンバーの営業演奏で津軽海峡冬景色を歌いました。
最後に太田裕美さんがロマンチックが止まらないを原曲と違うバージョンで歌いました。
太田裕美さんが可愛らしさが残っていて好感がもてました。この日出演された皆様の更なる活躍を願っています。
2014年06月18日 Posted by プラネマン at 23:15 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
歌謡プレミアムに研ナオコさん出演

1978年にヒットした「カモメはカモメ」は日本レコード大賞を受賞した名曲ですがオープニングはカモメはカモメでスタートしました。
続いて研ナオコさんのインタビューがあり憧れた歌手は美空ひばりさん、島倉千代子さん、1960年代後半に盛ったグループサウンズにハマった話などがありました。
研ナオコさんは歌手のオーディションに合格したもののデビューが決まるまで映画館でバイトをしていたそうです。
1971年に「大都会のやさぐれ女」で念願の歌手デビューをしましたが今一つ合わなかった…という話をしていました。
研ナオコさんの同期の野口五郎さんも演歌でデビューしましたが売れずに2曲目からはポップスに転向、研ナオコさんも野口五郎さんもデビュー曲は今では歌えない…と話していました。
1976年「LALALA」がヒット、中島みゆきさんとの出会いの曲でした。そしてこの曲がコンサート映像で流れました。
研ナオコさんは中島みゆきさんのアザミ嬢のララバイを聞いてこの人に歌を作ってもらいたい…と思ったそうです。中島みゆきさんと初めて会った時は地味で部屋の片隅で何か書いていた…というエピソードを話していました。
1976年にオリコン1位になった「あばよ」を研ナオコさんが歌いました。この歌はリアルタイムでは聞いていませんが思い入れの深い歌で聞きながら泣きそうになりました。
同じく1976年カックラキン大放送がスタート、バラエティーに挑戦しました。歌手がコントをするのは当時としては珍しい試みでした。
昭和57年4月23日に放送された当時28歳の研ナオコさんと27歳の野口五郎さんのカックラキン大放送が映りました。研ナオコさんのナオコばあちゃんが受けました。
同期の野口五郎さんのビデオレターが映りました。研ナオコではなく変ナオコと言ったり野口五郎さんは貯金通帳を眺めるのが趣味で冷蔵庫に乾電池を保存している…などのエピソードが楽しかったです。
歌手としてスタートしたのにバラエティーなどが忙しくなりジレンマを感じていた研ナオコさんですが1975に「愚図」と出会いました。
「愚図」は研ナオコさんの初のオリコントップ10入りの作品でしたが今までいろいろな積み重ねがあって愚図に出会えた…と話していたのが印象的でした。
他にはオリジナルバックを作っている話…
1985年に田原俊彦さんとのデュエット曲「夏盛りほのじ組」の映像…
吉幾三さんの作曲「かあさん」のエピソードと歌の披露…
来年歌手生活45年になり同期の野口五郎さんとジョイントコンサートを行う話等がありました。
いろいろな人との出会いに恵まれたのは研ナオコさんの人徳だと思いますが愚図のエピソードに目の前にあるものを必死でこなして行く大切さを知りました。
研ナオコさんこれからも歌手生活50年、60年に向けて頑張って欲しいと思います。研ナオコさんのますますの活躍を願っています。
2014年05月15日 Posted by プラネマン at 08:46 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
旅立ちの春に贈る歌/BS−TBS、日本名曲アルバム


3月になり卒業、入学、進学、就職のシーズンになり旅立ちの季節になりましたがそんな旅立ちの春に贈る歌の特集があり聞いてみたくなりました。
オープニングは大正12年に発表された「春よ来い」が歌われました。童謡、唱歌で歩き始めたミヨちゃんが…という小さな頃に聞いた懐かしい歌でした。
続いて平成元年に発表された「春に…」が歌われました。
ここで出演者の紹介があり横浜のフェリス女学院音楽科のブラウエンコーアさんが登場しました。
まずは大正2年に発表された「故郷を離るる歌」が歌われました。♪さらば故郷、故郷さらば…と聞いた事がある歌でした。
続いて平成4年のTOMORROW,平成5年の「負けないで」が歌われました。
ソプラノ歌手の鈴木慶江さんが出演、「素敵な春に…」と「夜来香」が歌われました。
その後再びフェリス女学院のブラウエンコーアさんが登場して昭和40年に発表された「巣立ちの歌」が歌われました。この歌はもう30年近く昔になりますが僕の卒業式で歌われた曲で素晴らしい歌声に思わずホロリとなりました。
続いて学校紹介があり町田市の桜美林大学の音楽専修合唱団さんが登場しました。
平成3年の「旅立ちの日に」
「おんがく」
昭和44年の「ある日突然」が歌われました。
再び鈴木慶江さんが登場、明治21年の「さくらさくら」が歌われ鈴木慶江さんとフェリス女学院のブラウエンコーアさんで「別れの曲」が歌われました。
最後に昭和11年に発売された「椰子の実」をチェロとバイオリンで演奏されあっという間の1時間が終わりました。
日本名曲アルバムを見るのはクリスマス以来でしたが一週間の疲れが吹き飛んだ美しいハーモニーに癒された良質の番組だと思いました。
これからも忘れ去られたり埋もれて行く名曲を掘り起こし歌い継いで欲しいな…と思いました。出演された方の音楽がますます深まって行く事を願っています。
2014年03月01日 Posted by プラネマン at 12:13 │Comments(2) │歌番組テレビ放送
オール中島みゆきナイト/中島みゆきの名曲を秘蔵映像で…NHK、BS

中島みゆきさんは1975年にデビューしてから70年代、80年代、90年代、2000年代と4つの年代でシングルチャートが1位になったスーパースターであり国民的なシンガーソングライターだと思います。
今回の放送は松村邦洋氏が語りで中島みゆきさんを愛する人々がスナックみゆきという場所に集まって番組が進行しました。
まずはビデオレターで薬師丸ひろ子さんが登場しました。薬師丸ひろ子さんは「空港日誌」と「未完成」という曲を中島みゆきさんから授かったそうです。
レコーディングに中島みゆきさんが立ち会ったそうですが長い節を歌い続ける場面があり大変だった…とエピソードを語っていました。
薬師丸ひろ子さんは「時代」をリクエストしました。この曲は以前NHKソングスという番組で特集されました。出演者が時代は生きた分だけ凄さが加わると話していましたが広い年代に愛される曲だと思いました。
続いてこの番組のゲストの脳の研究家が「2000年発売のヘッドライト、テールライト」をリクエストしました。2005年12月8日のプロジェクトXの最終回で中島みゆきさんが歌った映像が流れました。
続いてさだまさしさんがビデオレターで登場しました。
かつてさだまさしさんと松山千春さんと中島みゆきさんと3人で焼き肉を食べに行った時ワカメを食べろ…と中島みゆきさんに言われワカメをガブガブ食べたら中島みゆきさんが喜んだそうです。
以後2人のコンサートには中島みゆきさんがワカメを送ってくるようになったそうです。
続いて棋士の先崎学8段が登場しました。先崎学8段は中島みゆきさんのアルバムコレクションのガムセットを見せてくれました。
先崎学8段は1982年発売の「歌姫」をリクエストしました。先崎学8段は対局中に別れ歌が頭の中に流れると勝つ可能性が高いと話していました。
続いてビデオレターでゆずさんが登場しました。ゆずさんはかつてコンサートで時代をカバーしました。コンサートの締めくくりに相応しい日本の歌という事で時代をリストアップしたそうです。
ゆずさんは1992年の「浅い眠り」をリクエストしました。ゆずさんが学生の頃リアルタイムで聞いていた作品で初めて100万枚を超えた作品でした。
続いておかもとまりさんが1998年の「命の別名」をリクエストしました。
おかもとまりさんが芸能界にデビューしたばかりの頃上手くいかず悩んでいた頃この曲を聞き自分も誰かに必要にされたい…と奮起した曲だと話していました。
続いてビデオレターで安達祐実さんが登場、1994年「空と君の間に」をリクエストしました。犬の目線で作った歌だと話していました。
続いて槇原敬之さんがビデオレターで登場、1992年の「誕生」をリクエストしました。生まれて来た事に人は悩む事がありますがそんな気持ちを歌った歌だと思いました。
中島みゆきさんのクイズで中島みゆきさんが表彰された時(その賞の漢字が分からず申し訳ありません)棚から〇〇が落ちてきたようだ…と話していましたが〇〇は何か?というクイズでした。
番組の出演者には正解者がいませんでしたが答えは本マグロでした。
中島みゆきさんがコンサートでよく出前を頼む食べ物は…というクイズで正解者はいませんでしたが答えは「力うどん」でした。
ここで出演者が中島みゆきさんの原点といえる「アザミ嬢のララバイをリクエストしました。子守唄のように抱かれる感じが良いと話していました。
一般の人500人に聞いた中島みゆきさんのベストソングは…
5位、ファイト1983年
4位、糸1998年、
3位、空と君の間に1994年、
2位、時代1975年、
1位、地上の星2000年でした。
ちなみに6位銀の竜の背に乗って、7位ヘッドライトテールライト、8位歌姫、9位命の別名、10位荒野より…でした。
1位の地上の星を2002年紅白歌合戦で黒部から生中継した映像が流れました。
続いてビデオレターでALFEEの坂崎幸之助さんが登場しました。
1994年に一度だけ有志が集まってコンサートをした時吉田拓郎さんがギター1本でファイトを歌いみんなが絶賛したそうです。プロが選ぶ1曲でファイトが選ばれました。
ここでサプライズが…なんと中島みゆきさん本人が郵便配達として登場しました。
出演者は初めはだれか分かりませんでしたが後から中島みゆきさんだと気がつきました。中島みゆきさんは「力うどんは天かす抜きで…」と謎の言葉を残して去って行きました。
中島みゆきさんが配達した手紙は工藤静香さんからでした。
工藤静香さんは「あたいの夏休み」を学生時代音楽室のステレオで最大ボリュームで聞いていたところ先生に見つかり怒られたエピソードを書いていました。
工藤静香さんは「見返り美人」をリクエストしました。
2006年の「宙船」が流れ「銀の竜の背に乗って」がエンディングとして流れました。
数々のアーティストが絶賛した中島みゆきさんの凄さが分かった番組でした。
出演者が100年経ったらクラシックの演奏家、ビートルズ、中島みゆきさんが語り継がれるだろう…と話していましたがなるほど…と思うほど中島みゆきさんは凄いと思いました。
2010年代にもぜひシングルチャート1位の曲を出して欲しいと思いましたが中島みゆきさんのますますの活躍を期待したくなった番組でした。
2014年01月04日 Posted by プラネマン at 04:39 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
薬師丸ひろ子さん35周年記念コンサート

今年はNHK朝のドラマあまちゃんで大ブレークした薬師丸ひろ子さんは今年歌手35周年を迎えその様子が放送されました。
オープニングは1983年の「探偵物語」と1985年の「素敵な恋の忘れ方」で始まりました。
ドラマの合間をぬってのリハーサルの様子が映され1985年から薬師丸ひろ子さんと携わってきた監督が薬師丸ひろ子さんは天性の声を持っている…と絶賛していました。
続いて赤いドレスで1984年の「メインテーマ」を歌いました。
この作品は映画メインテーマのテーマソングで部活をサボって映画館で見ました。薬師丸ひろ子さんが沖縄で自分探しをする映画で当時17才の僕は強い影響を受けた作品でした。
続いてあまちゃんの場面が映った後で童謡の「故郷」と「冬の星座」を歌いました。薬師丸ひろ子さんはコンサートの中で童謡にも力を入れているそうです。
「夢で逢えたら」を歌った後で薬師丸ひろ子さん14才の作品「野生の証明」とセーラー服と機関銃の場面が放送されました。
1981年の「セーラー服と機関銃」
「僕の宝物」
「時代」と歌い最後に「woman、Wの悲劇」を歌いあっという間の1時間が終了しました。
僕が中学生だった多感な頃に薬師丸ひろ子さんは大活躍をしていました。その頃描いていた志や夢等を思いだし懐かしく感じました。
映画メインテーマを見て影響を受けてから来年で30年になります。自分のメインテーマを見直したりケジメをつけなければいけないな…と思いました。
薬師丸ひろ子さんの歌声で淋しい中年独身男の僕は癒され見て良かった番組でした。薬師丸ひろ子さんのますますの活躍を願っています。
2013年12月29日 Posted by プラネマン at 19:46 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
BS、TBS日本名曲アルバム/クリスマス特集

この日忙しく10時頃帰宅すると偶然に日本名曲アルバムを放送していました。特に予備知識なく見ました。
オープニングは昭和9年作の「サンタが町にやってくる」が混声合唱で歌われました。
続いて昭和24年作の「赤はなのトナカイ」が男声合唱で歌われ続いて讃美歌の「きよしこの夜」がギターの伴奏で歌われました。
「きよしこの夜」を歌ったのは東京都台東区にある上野学園さんでした。上野学園さんは明治27年創立の名門ですがこの日は上野学園高校合唱団の皆様が出演、讃美歌の「さわやかに星はきらめき」を歌いました。
オープニングで「サンタが町にやってくる」を歌ったのはハルモニアアンサンブルの皆様でした。ハルモニアアンサンブルさんは平成21年に結成の混声室内合唱団で指揮者を置かず自発的に活動をしているそうです。
讃美歌の曲と昭和46年の「あわてんぼうのサンタクロース」を歌いました。
続いてソプラノ歌手の小野友葵子さんが登場、「星に願いを」と「ママがサンタにキスをした」を歌いました。
番組の冒頭で赤はなのトナカイを歌った男声合唱団が讃美歌の「もろびてこぞりて」を歌いました。
彼らは東京都文京区にある東大合唱団コールアカデミーの皆様でした。時代や地域にこだわらない活動をしているそうです。讃美歌の「荒野の御使い」を歌いました。
続いて上野学園高校の皆様が「もみの木」を歌いハルモニアアンサンブルの皆様が「恋人がサンタクロース」小野友葵子さんが昭和58年ヒットの「クリスマスイブ」を歌いました。
最後に讃美歌の「ひいらぎ飾ろう」を上野学園高校の皆様と小野友葵子さんが歌いあっという間に1時間が終了しました。
讃美歌を中心にクリスマスに相応しい曲が歌われ上質な番組を見れました。この日出場した皆様のさらなる活躍を願っています。
2013年12月22日 Posted by プラネマン at 11:17 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
NHK、SONGS 、KinKi Kids さん出演

今回はKinKi Kidsさんの特集でした。
KinKi Kidsさんは発売した33枚のCD全てが売上1位になる人気歌手です。
僕個人的には「硝子の少年」の青春時代の郷愁を誘うようなメロディと歌詞が好きでした。
僕が前の会社を辞めたのが1999年頃でしたがその頃ヒットしていたKinKi Kidsさんの「雨のメロディ」の♪過ぎた時間はもう戻せない…それはそうさ、確かにそうだけど…という部分を聞いていろいろな事を考えた事がありました。
KinKi Kidsさんも結成20年を超えたようですが評価しているので出演を知り楽しみでした。
番組はKinKi KidsさんがNHK総合センター7階を訪れた場面から始まりました。
ここは2人で歩いてきたアイドルの道という事で先輩アイドルのバックダンサーとして踊った場所でした。
2人は神戸、奈良の中学に通いながら週末に東京でレッスンに通っていたところを社長が目をつけた…という事でした。社長のエピソードを話していました。
2人にアイドルオンステージという番組の話があり101スタジオという場所で2人がセルフプロデュースして番組を進行したそうです。
1993年の2人の様子が映りました。
人気が出てきた2人は1994年12月31日に日本武道館で初のコンサートを開催、CDデビューしていないアイドルとしては初の快挙でした。
1994年にはドラマ人間、失格にも出演、歌手としての幅を広げ結成4年で念願のCDデビュー、作詞家に松本隆氏、作曲家に山下達郎氏と日本のトップクラスの作詞家、作曲家の作品で華々しくデビューしました。
そして33作連続シングル販売1位でギネス記録を更新中という大活躍をしています。
2人の始まりの場所の101スタジオから「硝子の少年時代」
「愛されるより愛したい」
「僕の背中には羽がある」を歌いました。
KinKi Kidsさんをテレビで見るのは実に久しぶりですが激しいダンスに30代半ばとは思えないイケメンさに天は二物を与えたんだな…と感動しながら見ていました。
続いてカメラは1997年に吉田拓郎氏と出演した「love、love愛している」という番組の収録終了後に食べに行った焼肉屋さんを訪れました。
その番組ね中で2人は吉田拓郎氏からギターを習う場面がありました。ギターの基礎をマスターした後で曲を作るように言われました。
剛氏作詞、光一氏作曲の2人で作った曲「好きになっていく、愛していく」を歌いました。
2人はこの番組で吉田拓郎氏からいろいろな事を学びましたが音楽を作っているのは基本的に人間だと教えられ音楽を作り届ける喜びを知った…と話していたのが印象的でした。
最後に最新作「まだ涙にならない悲しみが」を歌いあっという間に30分の番組が終了しました。
「硝子の少年」も「雨のメロディ」も名曲でしたがさらに進化しているKinKi Kidsさんを知りました。
アイドルからアーティストに進化していたKinKi Kidsさん、これからも素晴らしい作品を届けて欲しいと思いました。
2013年12月18日 Posted by プラネマン at 13:03 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
NHK、SONGSに薬師丸ひろ子さん出演

今年はNHKの朝ドラマのアマちゃんがヒットして実際には見たことはない僕もいろいろな所でアマちゃんの話を聞きました。
その中で薬師丸ひろ子さんが出演していてブレークした事は知っていましたが薬師丸ひろ子さんは映画デビュー35周年や23年振りにソロコンサートを行ったなど充実した1年を過ごしていた事を知りました。
46歳の僕には薬師丸ひろ子さんはセーラー服と機関銃での「カ、イ、カ、ン」の名台詞や数々のヒット曲を出して社会現象的な活躍や角川3姉妹としての活躍をリアルタイムで知っているので特別な存在でした。ソングスで特集があると知り楽しみでした。
番組はまず薬師丸ひろ子さんがセーラー服と機関銃のロケ地だった新宿を訪れた場面から始まりました。
薬師丸ひろ子さんは監督から「芝居は裸になるのと同じ覚悟がいる」と言われ役者として影響を受けた事や監督から主題歌を歌うように言われそれがブレークして思い入れの深い場所だと話していました。
薬師丸ひろ子さんは「セーラー服と機関銃のノスタルジアバージョン」を歌いました。リアルタイムで聞いた時より落ち着いていて素敵でした。
薬師丸ひろ子さんは今年10月に23年振りのソロコンサートを開催しましたがその中からダイジェストでメインテーマや童謡の故郷を歌っている場面が登場しました。
今年は15年振りのアルバム「時の扉」を発売、薬師丸ひろ子さんが自信のヒット曲ばかりでなく童謡などいろいろな分野から選曲しました。
歌謡曲の分野から昭和34年にヒットした「黄昏のビギン」を選びスタジオで歌いました。
アマちゃんの中で薬師丸ひろ子さんが詩人サトウハチロー氏の童謡を歌う場面があったそうでルーツを探るために岩手県北上市に行きました。
サトウハチロー氏は「リンゴの歌」や「小さい秋見つけた」等を作詞しましたがそのルーツを探り「秋のこ」を歌いました。
アマちゃんの出演した時の「続けていくのも才能だ」というセリフが紹介されましたがその通りだと思い何事も中途半端だった今までを反省しました。
最後に夢で逢えたらを歌いあっという間の30分が終わりました。
薬師丸ひろ子さんが大活躍をしていると知り嬉しく思いました。
僕個人的には薬師丸ひろ子さんが主演したメインテーマが好きですでに閉館になった劇場で部活をサボり見に行った事が印象深く沖縄で自分らしさを見つけて行く小笠原しぶきに好感が持てました。
あれから30年が過ぎて自分のメインテーマがまだ見つかっていない事は不味いな…と思いました。
比較的最近では合唱をテーマにした「うた魂」という映画で薬師丸ひろ子さんは街角で歌う謎のシンガーや先生役として出演して合唱や歌の楽しさを演じていたのが印象的でした。
僕の地元長野市では長野ロキシーさんという日本最古級の映画館があり定期的に名画特集がありますが来年初めに薬師丸ひろ子さんの特集が決まり初期の作品を中心に楽しみです。
とまれ薬師丸ひろ子さんのさらなる活躍を期待しています。
2013年12月09日 Posted by プラネマン at 12:40 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
NHK、SONGS 、五輪真弓さん父の故郷五島列島で熱唱


今回は女性シンガーソングライターの草分けの五輪真弓さんが父の故郷長崎県の五島列島を訪れ自分のルーツを探る旅に出ました。
五輪真弓さんは1980年に発売した「恋人よ」がミリオンセラーになり紅白歌合戦に出場、シングル45枚、アルバム48枚を発売しました。
今回デビュー40年にあたり長崎県五島列島の久賀島に行きました。久賀島は21年前に亡くなった五輪真弓さんのお父さんの故郷でした。
久賀島に五輪地区という場所がありここが五輪真弓さんのルーツでした。
五輪地区はかつては50世帯ありましたが現在は2世帯だけになりました。
五輪真弓さんは五輪地区で曾祖父同士が兄弟だった遠い親戚に会いました。
五輪真弓さんのお父さんは音楽を愛していて130年の歴史のある木造建築の旧五輪教会でオルガンを演奏していたそうです。
五輪真弓さんは1960年代にラジオから流れるフォークソングに夢中になりました。
五輪真弓さんのお父さんはお姉さんにギターを買ってあげたら妹の五輪真弓さんにも買ってあげないと申し訳なく思いギターを買ってあげたそうです。
16歳で初めて人前で歌い19歳からライブハウスで歌い20歳からオリジナル曲を作り21歳で「少女」でデビューしました。
デビューから5年、恋愛の歌を歌うようになり究極の別れ歌を歌いたい…と思うようになりました。
五輪真弓さんのデビューアルバムの編曲をした兄のように慕っていた音楽家が亡くなりました。
その時に永遠の別れを感じました。♪恋人よ…の最後の歌詞に♪冗談だよと…笑って欲しい…というフレーズが浮かびました。
ギターを持って13年究極の別れ歌が出来ました。
恋人よ…をフルコースで歌いました。
五島列島で明治元年にキリシタンが迫害される事件があり五輪地区の人々も迫害に合いました。
しかし信仰を棄てず愛の精神に生きました。五輪真弓さんも愛の精神が先祖から伝わっている…と五島列島に来て改めて感じたようでした。
今から27年前に初めて五島列島を訪れた五輪真弓さんは1つの歌を作りました。その後結婚、出産して先祖から伝わる魂の旅は引き継がれました。
その時に作った「時の流れに鳥になれ」をフルコースで歌いました。
五輪真弓さんは今年9年ぶりに新曲を発表しました。「BON,AGAIN」という曲で命の繋がりを信じ別れを恐れず生きて行こう…というメッセージが入った曲でした。
あっという間の30分でしたが見応えがありました。
僕は46歳独身、このまま朽ち果ててしまうだろうな…という思いがあります。
子無しで血脈を絶やし申し訳なく思うと同時に作詞をして自分の生きた証を残したい…と痛感していました。
内容はともかく現在は27作品作り日々映画や音楽、天文、歴史に学びながらレパートリーを増やしていきたいと思っています。
僕は若い頃時間を見つけては旅をして全国41都府県に行きました。かつては46都道府県に行ったら最後は長崎県五島列島に行き西の果てで青春の区切りケジメにしたいと思っていました。
生活が厳しく旅どころではなくなりいつしか五島列島への憧れがなくなっていましたが今回の番組を見て作詞が100作品になったら五島列島に行き五輪真弓さんの一厘を加えてみたいな…と思いました。
僕は1991年に大阪にいましたが3歳年上のお姉さんに告白フラれ凹んでいました。その時に五輪真弓さんのコンサートに行き励まされました。
その記事は僕のブログのテレビ、芸能のカテゴリーにあるので良かったら見て欲しいと思います。
素人の僕が作詞100作品を作る…と言っても簡単ではありませんが文化、芸術に触れ頑張って行きたいと思います。
今から22年ほど前に五輪真弓さんの歌声に励まされたように100作品完成後には五島列島で五輪真弓さんの一厘を加えてさらにバージョンアップしたいと思います。
五輪真弓さんのこれからの活躍と素晴らしい歌によって多くの人が癒される事を願っています。
2013年10月13日 Posted by プラネマン at 21:22 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
ゴダイゴさん歌謡プレミアムに登場

ゴダイゴさんは僕が小学生の頃テレビドラマ西遊記のテーマソングを歌い強く印象に残っていました。そのゴダイゴさんが出演すると聞きとても楽しみでした。
オープニングは1978年にヒットした西遊記のエンディング「ガンダーラ」でした。孫悟空を演じた夏目雅子さんの名演技が思い出されて懐かしく思いましたが現在聞くとリアルタイムで聞いた時より深く感じました。
ゴダイゴさんの名前の由来は後醍醐天皇から来ていてGO,GOD,DIEGO,等の意味も含まれているそうです。リアルタイムではそこまで知らなかったのでなるほどな…と思いました。
続いて同じく西遊記のオープニングのモンキーマジックが歌われました。手から蜘蛛の糸?が出たのは感激でした。
当時は携帯やファックスが無い時代で作詞家が電話口で歌詞を言いそれを手書きにしたエピソードを話していました。
懐かしの秘蔵映像…というコーナーがあり1979年1月22日に紅白歌のベストテン…という番組で西遊記のドラマの衣装を着て演奏した場面が放送されました。
実際にドラマで使用したコスチュームでタケカワユキヒデさんは夏目雅子さんの孫悟空のカツラが小さくて大変だった…と話していました。
キャストが2人余ってしまい妖怪のコスプレをしてタケカワユキヒデさんは可笑しくて仕方なかった…と話していました。
蜘蛛の糸のエピソードもあり歌舞伎からきている…と話していました。
1979年の当時のコンサートの秘蔵映像が放送されました。
マジックカプセルという歌が歌われましたが長髪でアイドルしているな…と感じたり洋楽しているな…と感じました。
1980年代には海外進出…ネパールでの野外コンサートには6万人が終結、町の人口の1/5の人々が集まりました。現地の人はコンサートという概念が無いのでステージの裏側に座った…というエピソードがありましたがそういった場所でコンサートを行うのは意味があったと思います。
万里の長城での写真も公開されました。コンサートをした場所は違う場所で万里の長城ではなかったですが当時の中国は社会主義でレッドカーテンと呼ばれていた時代なのでコンサートをした事は凄いと思います。
しかしメンバーの中では音楽がマンネリ化したり義務感になってしまい少しずつ距離が出来ていたようでした。
ここでビューティフルネームが歌われました。
1985年にインターミッションと銘打ち活動休止、2006年に結成30周年を機会に再始動、奈良県東大寺でコンサートを行いました。
今年の10月に東京、大阪でコンサートを行うそうです。
伝説の雨の野外コンサートのエピソードがありました。雨で楽譜が消えてしまいドラムを叩けば水が跳ね返ってきて楽器が水に濡れてダメになって行ったそうですが一体感は凄かったと思います。
1979年にヒットした銀河鉄道999の誕生秘話を話してくれました。
歌詞を受け取ったのは録音の12時間前で翌日の昼には録音をするスケジュールになっていました。
タケカワユキヒデさんは夜の3時頃に曲とデモテープを作りました。翌朝ミッキー吉野さんが編曲で部屋に籠って他のメンバーはインベーダーゲームをしながら完成を待っていました。
強硬スケジュールにミッキー吉野さんがキレていないかメンバーは心配して恐る恐る部屋を覗くとミッキー吉野さんは編曲中で何曲か選んでいました。
タケカワユキヒデさんは採用されたイントロを聞いてこれにしよう…と決めて銀河鉄道999が完成した…という話をしていました。
あっという間に1時間が終わりましたが見応えがありました。解説の方がグループサウンドは一度解散して再結成すると違和感を感じる事があるがゴダイゴさんはそれがなく素晴らしい…と言っていましたが同感でした。
ゴダイゴさんのこれからの活躍を願っています。
2013年09月24日 Posted by プラネマン at 12:37 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
城之内早苗さん歌謡プレミアムに出演、

城之内早苗さんはオニャンコクラブの中で唯一の演歌を歌っていました。僕は46才でオニャンコクラブがリアルタイムで活躍していた頃を知っていました。当時は懐疑的にオニャンコクラブを見ていましたが城之内早苗さんは特別な存在でした。
僕は大学受験の失敗から十二指腸に潰瘍が出来て引きこもりになりました。その後フリーターをして再度大学受験を目指しましたが失敗、1986年〜87年頃の80年代半ばに引きこもりとフリーターをしていて流行に疎い僕が時代の最先端を行っていました。
失意の中で専門学校に通いましたがその頃城之内早苗さんの金沢の雨をラジオで聞いて急に金沢に行きたくなりました。香林坊、片町界隈を1人で歩き市場で海産物を味わい兼六園に行き私鉄に乗って内灘海岸に行きました。
後に僕は旅に目覚めて全国41都府県に行きましたが原点は城之内早苗さんの金沢の雨を聞いたのがきっかけで感謝しています。
城之内早苗さんの名前を久しぶりにテレビ欄で見て歌謡プレミアムを見たくなりました。
オープニングは1986年にヒットした「あじさい橋」を歌いました。この曲は初登場で1位になり演歌としては史上初の快挙でした。
城之内早苗さんの歌の原点は民謡だと話していました。中学2年の時に友達とオーディションを受けて落選しましたが3位になったそうです。それがきっかけで2週間に1度東京でレッスンを受けるようになりました。
レコード会社からオーディションを受けないか…と誘われました。当初の予定では3ヶ月ほどで番組が終わると言われ後にオニャンコで一緒になる河合その子さん他5人とオーディションを受けて東京タワーで記念撮影をした…と話していました。
夕焼けにゃんにゃんが想像外にヒットして転校、寮生活が始まりました。
いざオニャンコで活動してみたもののダンスに馴染めずオニャンコが人気が出るほど城之内早苗さんは自分がやりたい事から遠ざかっているようで葛藤があったと話していました。今だから話せる内容ですが華やかな舞台裏ではいろいろな事があったんだな…と感じました。
続いて1986年にヒットしたソロ2枚目の流氷の手紙が当時のフィルムで流れました。
僕は当時農学部志望でしたが第1志望には到底学力が及ばず悩んでいました。そんな頃流氷の手紙を聞いて北海道の大学を受けようか悩みました。18才の城之内早苗さんを見て当時の事を思い出していました。
城之内早苗さんはオニャンコの時は口パクでも通用して認識が甘く痛い目にあった体験談を話しました。
小林幸子さんや島倉千代子さんと共演した時に歌を覚えられず先輩方にフォローしてもらった…と話していました。
後で楽屋に呼ばれ内心ビビっていたら要らなくなった衣装をもらい大感激した…と話していました。
続いて1970年にヒットした由紀さおりさんの「手紙」を歌いました。
城之内早苗さんは子供の時に由紀さおりさんが出演した番組をよく見ていたそうですが他に森昌子さんや小柳ルミ子さんの私の城下町等に憧れビューティーペアにも憧れ弟に4の字固めをかけていた…と話ていて親しみが持てました。
美空ひばりさんの「津軽のふるさと」がコンサート仕様で流れ2008年に発売した「この町でを歌いました。」この歌は21世紀に残しておきたい言葉を募集してそこから生まれた曲だそうです。布施明さんがコーラスに参加している豪華な曲でした。
城之内早苗さんの趣味の手芸の作品が展示されました。城之内早苗さんはだんだんとキラキラするものが好きになったそうです。自分の輝きが失って行くからではないか…と話していましたが気持ちがわかる気がしました。
最後に最新曲の「佐渡炎歌」が歌われ番組が終了しました。
城之内早苗さんは後30年は歌いたい…と話していましたが同年代として城之内早苗さんがますます活躍する事を願っています。
写真は城之内早苗さんのヒット曲夢までタクシーのジャケットです。イメージで貼っておきました。
2013年09月12日 Posted by プラネマン at 05:29 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
長山洋子さん着物でヴィーナスを熱唱しました。


この番組は初めて見ましたがゲストに演歌歌手の長山洋子さんが出演すると知り楽しみでした。
長山洋子さんは僕と同じ昭和42年生まれで間もなく芸能活動30周年になるそうです。長山洋子さんがデビューした頃は個性的なアイドル歌手がたくさんいて特に何も感じませんでした。
1986年春に高校を卒業、当時学んでみたかった分野があり東京に行き予備校に通いました。しかし授業や東京の生活にはついて行かれず友達もいなくて引きこもりになりました。そんな頃に聞いたのが長山洋子さんの「雲に乗りたい」でこの歌がツボにハマってしまいました。
当時は東部東上線沿線に住んでいましたが池袋のシャンシャインシティーで雲に乗りたい…の大規模なイベントがあったのを知り行けばよかったな…と思いました。
何ヵ月も人と話をしない淋しい時代でしたがレンタルレコード店で借りてきた長山洋子さんのLPに慰められたり長山洋子さんがヴィーナスなどイメチェンして行く様子に自分も頑張らなければ…と元気をもらいました。
その後僕は格闘技を始めて引きこもりは克服、社会復帰しましたが辛かった時代を支えになってくれた長山洋子さんには感謝していて思い入れが深いです。
そんな長山洋子さんがテレビ出演してヴィーナスを歌う…と知り楽しみでした。
長山洋子さんは着物を着て登場しました。着物が良く似合う和服美人で良い年の取り方をしているな…と久しぶりに見た長山洋子さんを見て思いました。
長山洋子さんのデビュー当時のキャッチコピーは「僕の青春(とき)をとめる少女がいた」でした高校卒業から格闘技を始める約2年間の青春期を癒してくれた長山洋子さんはキャッチコピーそのものでした。
アイドル水着運動会で10メートルの飛び込み台から飛び込んだ話や夏に3歳になるお子さんがいるそうですが長山洋子さんも旦那さんも仕事がいそかしく日本語を話せない旦那さんの両親が日本に来て子守りをしたエピソードを話していました。
出演者はアメリカン、レモネードという赤ワインをベースにしたカクテルを飲んでトークが盛り上がって行きました。
当初長山洋子さんの結婚には周囲の人は反対していたそうですが広尾のワインバーで小泉今日子さんと結婚について相談したエピソードを話していました。結婚に唯一反対しなかったのが小泉今日子さんだと話していました。
長山洋子さんは自宅にカラオケの機械を購入したそうですが小泉今日子さん、中森明菜さん、荻野目洋子さんの歌が好きだと話していました。
同じアイドル時代を共に過ごし切磋琢磨した仲間達に思い入れが深いのだと感じました。
今回の放送の目玉、着物でヴィーナスを歌いました。気持ちが当時に戻り聞き惚れてしまいました。
長山洋子さんは幼い頃から沢田流の三味線を習い「沢田勝姫」という名前を家元から授かったそうです。
ニューヨークのカーネギーホールで三味線、着物、演歌と日本の心を歌い好評だったと話していました。
最後に三味線の家元と「門付け兄妹旅」という歌を三味線の伴奏付きで歌いました。他の演歌歌手とは一味違うステージで演歌に三味線が加わりさらに日本的になっていて素晴らしかったです。長山洋子さんの芸能活動30周年の積み重ねてきたものの凄さを感じた1曲でした。
あっという間に1時間が終了しましたが長山洋子さんの日本的世界にさらに期待したいと思いました。同世代の星、長山洋子さんのさらなる活躍に期待したいと思いました。
ヴィーナスのレコードは無かったですが写真はヴィーナスと同時期に発売されたユア、マイ、ラブのシングルレコードの写真です。ヴィーナス当時のイメージを味わって欲しい…と願いつつ貼っておきました。
2013年06月29日 Posted by プラネマン at 06:30 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
NHK、SONGS 、八神純子さん出演

この日は八神純子さん特集で「水色の雨、誕生秘話」を中心に放送されました。
以前SONGSで中島みゆきさんの特集がありましたが中島みゆきさんの「時代」が受賞したグランプリに八神純子さんが出演していた…というエピソードが放送されました。
その時に幼い頃聞いた八神純子さんの「水色の雨」を思い出しました。子供心に八神純子さんの透き通った声が強烈でした。ふとあの時の感動を思いだし八神純子さんの歌を聞いてみたくなりました。そして八神純子さんの特集があり楽しみでした。
八神純子さんは29歳で渡米、ファンの前から姿を消していましたが去年25年ぶりにコンサートを開催しました。
八神純子さんは名古屋生まれで3歳からピアノを始め高校に入り作詞作曲を始めました。
第8回ポピュラーソングコンテストで「雨の日のひとりごと」で優勝、20歳の誕生日に歌手デビューしました。レコーディングに時間をかけて大変だった…というエピソードを話していました。
デビュー曲「思い出は美しすぎて」で12万枚売上をして注目されました。
しかしセカンドシングル「サヨナラのことば」は売れずスタッフから名古屋に帰った方が良い…と言われました。
後がない八神純子さんはアイデアを求めながら原宿を歩くと水色の雨のフレーズが浮かんできました。歌手生命が終わってしまうかもしれない…という土壇場のプレッシャーの中で水色の雨が誕生した秘話を話していました。
「水色の雨」はレコーディングの時のスタッフの対応からして違ったそうで59万枚の大ヒット曲になりました。
八神純子さんは「水色の雨」をフルコースで歌いました。
透き通った声は子供の時の強烈な印象そのものでした。今から聞くと歌詞も大人の恋を歌い現在の流行歌よりインパクトが強い気がしてヒットした理由が分かる気がしました。
その後八神純子さんは1979年に「思い出のスクリーン」、「ポーラスター」をヒットさせ1980年に「Mr.ブルー」、「パープルタウン」で紅白歌合戦出場とヒット曲を連発しました。
デビューから4年アメリカ進出、1983年全曲英語のアルバムを発売しましたがヒットにはいたりませんでした。
28歳でイギリス人音楽プロデューサーと結婚、アメリカに移住、ロスでライブを開催したりしましたが2人の子供を出産すると音楽活動は停止、子育てに専念しました。
八神純子さんは友人から幸せか?と聞かれたそうです。友人いわく「自分の幸せは人の気持ちで左右されてはいけない…と言われ「歌う事が幸せだ…」と行き着きました。
去年25年ぶりに音楽活動を再開しました。16年ぶりにオリジナルアルバムを発売しました。
八神純子さんは「パープルタウン」を生演奏で歌いました。
最後に夫婦の愛を歌ったラブソング「約束」を歌いました。ミカンを食べるとか夕陽の坂道など独身の僕には眩しすぎた素敵な歌でした。
八神純子さんは年齢に関係ないラブソングを歌いたい…と言っていましたが人々の心を癒す素敵な歌を作れると思いました。
八神純子さんのこれからの活躍が楽しみです。
2013年06月23日 Posted by プラネマン at 21:43 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
NHK、SONGS 、生誕60年、テレサ・テンさん特集

今回は生誕60年になるテレサ・テンさんの特集でした。
僕は酒がダメで酒の席は苦手です。そんな中で上司や取引先の人のカラオケを聞くのは苦痛ですがテレサ・テンさんの歌を上司や取引先の人が歌うと歌詞や曲調に魅せられ苦手な酒の席の苦痛が和らぐ事を知りました。
テレサ・テンさんは亡くなってから18年ほどになると思いますが僕もテレサ・テンさんが亡くなった42歳を過ぎた時からテレサ・テンさんの偉大さが分かってきました。そんな中でテレサ・テンさんの特集があると知り楽しみでした。
テレサ・テンさんは1949年に蒋介石が台湾に流れた時に中国本土から台湾に移住した両親の元で1953年に台湾で生まれました。
10才の時に地元ラジオ局のコンテストで優勝、
14才で歌手デビュー、
16才で主演映画に出演、
18才でシンガポールで人気に火がつき同年香港でもレコードをリリース、
アジアのスターになりました。
プロデューサーの舟木稔氏が当時勤めていたレコード会社でデビューさせようと奔走、1974年、21才で日本デビュー、
2枚目のシングル「空港」がヒット、数多くの新人賞を受賞しました。
日本に来てから3年目の1977年に出演したテレビ番組から「空港」を歌うテレサ・テンさんの貴重な映像が流れました。
アジア各国を飛び回る多忙な日々を過ごしていたテレサ・テンさんですが1979年に不正パスポート問題が発覚、台湾政府はテレサ・テンさんの身柄の引き渡しを要求しましたが台湾に戻ると歌えなくなる可能性があるので舟木稔氏は当時の価格14万円のアメリカ行きの片道切符でアメリカに留学させました。
テレサ・テンさんはアメリカでいろいろな音楽に触れて音楽の幅を広げて行きました。
1980年に台湾に戻り活動を再開、83年には香港でデビュー15周年のコンサートを開催、10万人を動員したそうです。
日本ではパスポート事件で忘れられた存在になっていたテレサ・テンさんですが1984年に日本で再始動、作詞荒木とよひさ氏、作曲三木たかし氏がコンビを組み「つぐない」を発表、大ヒットしました。
「つぐない」を歌うテレサ・テンさんが登場しました。作詞の荒木とよひさ氏のインタビューがありテレサ・テンさんの日本語は丁寧で日本人が忘れつつある日本語の美しさを表現している…と語っていました。
1985年に「愛人」で紅白歌合戦出場、
1986年に「時の流れに身をまかせ」が大ヒット、作詞の荒木とよひさ氏いわく「もしも…」は誰にでもありその「もしも…」を歌ったこの歌がヒットした…と語っていました。
テレサ・テンさんは両親の故郷の中国で歌うのが夢でした。
1930年代にヒットした「何日君再来」をレコーディングしましたが中国政府はテレサ・テンさんの歌は退廃的であると言い禁止にしました。
しかし多くの中国人は布団の中で他人にばれないようにテレサ・テンさんの歌を聞いたり台湾のラジオを聞いていたそうです。
85年にテレサ・テンさんの歌は中国で解禁になり90年にコンサートを行う予定でした。しかし89年の天安門事件で中止になりました。
1989年に単身パリに行きました。3年後に「夜来香」を録音しました。その頃からテレサ・テンさんはぜんそくに苦しむようになりました。
1994年に夜来香を歌いますがこれが日本での最後のテレビ出演でした。
1995年にテレサ・テンさんはタイで急死しました。42才の早すぎた死でした。
今年5月に中国北京でテレサ・テン生誕60年記念コンサートが行われ中国、台湾の人気歌手がテレサ・テンさんの歌を歌いました。
最後にテレサ・テンさんが時の流れに身をまかせを歌いあっという間の30分が終了しました。
最近僕は「もしも…あの時に違う選択をしていたら…」と思う事が度々あります。
テレサ・テンさんの歌をリアルタイムで聞いていたのは20代の頃でした。当時は普通の演歌にしか感じなかったテレサ・テンさんの歌が46才の僕の心にしみてきます。テレサ・テンさんの足跡をたどり偉大さを感じた番組で見て良かったと思いました。
2013年06月16日 Posted by プラネマン at 22:50 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
NHK、SONGS ,松田聖子さん出演

僕はNHK、Eテレで放送される♪らららクラシックという番組を見ていますが先日その番組にゲストで森口博子さんが出演しました。番組内で森口博子さんに今まで何かブームに乗った事がありますか?と質問がありましたが森口博子さんは「10代の頃松田聖子さんの聖子ちゃんカットがブームになった時に聖子ちゃんカットにした…」と話していました。
17才の聖子ちゃんカットにしていた森口博子さんの写真が画面に映りとても可愛かったです。森口博子さんは聖子ちゃんカットにしただけで幸せになれた…と話していて当時の聖子ちゃんフィーバーを思いだし懐かしかったです。
僕の勤務先に僕と同じ高校出身の若い子がいますが僕の卒業アルバムを見たいと言ってきました。後日卒業アルバムを持っていきました。他の同僚も卒業アルバムを見ましたが女の子はみんな聖子ちゃんカットをしているね!と盛り上がりました。昭和61年の卒業アルバムを見ると松田聖子さんの影響力の強さを感じました。
松田聖子さんの特集があると知り楽しみでした。
番組は松田聖子さんが12年ぶりにNHKホールを訪れた場面から始まりました。
松田聖子さんは当時日曜日夜6時から放送されていたレツゴーヤングに出演、2年間毎週NHKホールのステージで歌いレギュラー2年目には司会に抜擢されました。
レツゴーヤングの場面からデビュー曲の「素足の季節」
「チェリーブラッサム」
「白いパラソル」
「風立ちぬ」
「赤いスイトピー」が流れました。
17才青春プレイバックという事で観客のいないNHKホールで「夏の扉」をフルコーラス歌いました。松田聖子さんはミニスカートで登場しましたが足の細さに驚かされました。
紅白歌合戦名場面特集という事で松田聖子さんの紅白歌合戦に出場した時のお宝映像が流れました。
松田聖子さん初めての紅白歌合戦出場は1980年の「青い珊瑚礁」でしたが帽子を被るか悩んだそうです。被らなかった方が良かった…と本人は思っているようでしたが個人的にはあの帽子はいらなかったな…と思いました。
81年「夏の扉」
82年「野バラのエチュード」
83年「ガラスのリンゴ」が流れました。
松田聖子さんはデビューから33年過ぎた現在でも音楽に対する気持ちは変わっていないそうで素晴らしいと思いました。
今年2013年発売の松田聖子さん作詞「LALA」を生演奏で歌いました。
続いて久保田利伸さんが作曲、松田聖子さん作詞の「白い月」が歌われ最後に「スイートメモリー」が歌われあっという間に30分が終了しました。
スイートメモリーはリアルタイムで聞いた時は何も感じませんでしたが僕も中年になってから聞くと心にしみわたってきました。無くした思いが美しい…これは若い人には分からない思いだと思いますが松田聖子さんは時代を先取りしていたんだな…と感じました。
僕はリアルタイムでは松田聖子さんとライバル的だった河合奈保子さんのファンで松田聖子さんに対してはアンチ的でしたが松田聖子さんの歌が流れる度に当時を思い出してしまい影響力の強さを感じました。
松田聖子さんはその後出産や海外で仕事をするなど母親と仕事の2つの分野で幸せを掴み多くの女性達に夢を与えてきたと思います。松田聖子さんの偉大さを感じた30分でした。
2013年06月02日 Posted by プラネマン at 11:11 │Comments(2) │歌番組テレビ放送
歌のトップテン 85年10月14日号


歌のトップテンは1980年代前半に毎週月曜日8時の夜から放送されていた歌番組でした。偶然にファミリー劇場の番組表を見て放送を知りました。僕はリアルタイムで歌のトップテンを見ていたので懐かしく感じ見てみたくなりました。
司会は堺正章さんと榊原郁恵さんが担当していました。2人ともとにかく若かったです。最近榊原郁恵さんの息子さんが芸能界入りする話を聞いたのでなんともいえない偶然を感じました。この日の放送は1985年10月14日の放送でした。スタジオゲストに山口県から来た工業高校生が画面に映りましたがリーゼントやツッパリスタイルで昭和の香りがプンプンして懐かしくもあり微笑ましかったです。彼らも子供が高校生位になっているんだろうな…と時の流れを感じました。
第10位は柏原芳江さんの「しのび愛」でした。柏原芳江さんは番組中に2億円の家を建設中と言っていました。2億円とはスケールが大きいな…と思いました。第9位はチェッカーズのハートブレインボーでした。この局はファンサービスのために作ったのでテレビでは放送しないという事でした。
8位は小林明子さん「恋におちて」7位はさだまさしさん「恋愛症候群」でした。2人ともレコーディングということで出演しませんでした。僕の記憶では恋におちては金妻の歌だったような気がしました。柏原芳江さんの「しのび愛」も許されぬ恋の歌でしたが金妻が社会現象になっていた事が歌から感じられました。
6位は河合その子さん「涙のジャスミン、ラブ」でした。赤い服が可愛かった河合その子さんでしたがおにゃんこクラブが勢いがあったと感じ懐かしかったです。5位は菊地桃子さん「もう会えないかもしれない」でした。ハイヒールを履いた事がない…と言っていましたが背景に使用したススキは本物を使ったそうです。
4位は吉川晃司さんの「レイクダンスが聞こえる」でした。吉川晃司さんはニューヨークに行ってレコーディングをして来たと言っていました。この歌のB面は吉川晃司さんの作曲だといい多才な才能を感じました。新聞のテレビ欄で吉川晃司さんは大河ドラマで西郷隆盛役を演じる…と見たので現在も第一線で活躍している吉川晃司さんは凄いと思いました。
もうすぐトップテン…という事で森山達也さんが登場しました。3位はサザンオールスターズさん「メロディ」でしたがツアーの関係でお休みしました。
2位はとんねるずさんの「雨の西麻布」でした。トップワンになったらパンチパーマにすると言っていました。第1位はCCBさんのラッキーチャンスをもう一度でした。パトカーのミニチュアの中で歌っていました。
自分がリアルタイムで見ていた番組は感慨深いと思いました。機会があったらまた見たいと思います。楽しい一時でした。最近の堺正章さんの写真があったので載せてみました。機会があったらまた見たいと思いました。
2013年05月18日 Posted by プラネマン at 11:58 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
NHK、SONGS アスカさん出演

今回は元チャゲ&アスカさんのアスカさんが出演しました。
僕は毎週土曜日にNHK、Eテレで放送される♪らららクラシックという番組が好きで土曜日の夜は外出をしないようにして♪らららクラシックを楽しみにしています。
らららクラシックの司会者に加羽沢美濃さんというピアニストであり作曲家の女性がいますが以前番組の中で自分自身への応援歌、自らを奮い上げる歌は何か?という話をしていた時に加羽沢美濃さんはチャゲアスのPRIDEだとキラキラしながら語っていました。
僕が10代後半に流行った歌は大人の世界への憧れを与えてくれた歌が多く現在聞いても感極まるものがあります。チャゲアスさんもそのアーティストの1人で僕はマリオネットという歌が大好きで大人の歌だな…と多感な10代の頃に思っていました。
加羽沢美濃さんがチャゲアスさんの話をしていてマリオネットを聞いた感動を思いだしYouTubeでチャゲアスさんの違う歌を検索して見ました。やはり当時の若者が支持しただけの事があり時代を超えて今聞いても感動的でした。
当時はそんなにチャゲアスさんには詳しくなかったのでアスカさんの特集があると知り嬉しく思いました。
アスカさんはソロデビュー25周年になるそうです。アスカさんはまず中学〜高校時代を過ごした札幌に行きました。
アスカさんは福岡に生まれましたが自衛官だった父親の転勤で12才の時に千歳に引っ越しました。アスカさんは音楽を始める前は剣道一筋で過ごしたそうです。
札幌第一高校在学中に剣道でインターハイ準優勝の実績があり剣道の腕前が本格的だった事が分かりました。入学当時は148センチしかありませんでしたが朝から晩まで稽古して家に着いたのは10時〜11時という生活をしていたそうです。
顧問の先生はアスカさんの剣道の実力を見抜き特待生になる事を薦めました。顧問の先生はアスカさんは体育の先生か警察官か自衛官になると思っていたそうですが歌手になった…と聞いて驚いたそうです。しかしアスカさんが作った曲のパラダイス銀河を聞いて絶賛したそうです。
アスカさんは高2の夏に再び福岡に行きました。剣道部に入ったもののレギュラーにはなれず高3の春に剣道部は退部しました。
剣道一筋で真っ暗になるまで稽古していたアスカさんは明るいうちに家に帰るのに抵抗を感じましたがその頃井上陽水さんの氷の世界というアルバムを聞いて作曲を始めたそうです。
1979年大学生の時にコンテストで優勝して歌手デビューしました。1980年万里の河が55枚セール、1991年発売のSAY,YESは280万枚セール、初の音楽チャート1位になりました。
アスカさんは「LOVE,SONG」を歌いました。
アスカさんは北海道警察に勤務する剣道の世界チャンピオン栄花直輝7段の元を訪ねました。
栄花直輝7段は9年前の第12回剣道世界選手権で決勝戦で韓国と闘いました。2対2で迎えた大将戦10分以上勝負がつかない中で一瞬の隙をついて突きを決め日本を優勝に導きました。この試合を見たアスカさんは2004年に札幌で稽古をつけてもらいました。
栄花直輝7段とアスカさんは意気投合しました。栄花7段はアスカさんの歌を聞いて第1声の迫力や気迫は剣道に通じるものがある…と語っていました。
栄花7段は練習中にアキレス腱を切るアクシデントがありました。アスカさんは栄花7段をライブに誘いギブスに「気力」と書きました。栄花7段はアクシデントを乗り越え優勝しました。アスリート同士の結びつきが羨ましく思えました。
アスカさんは生演奏で「いろんな人が歌ってきたように」を歌いました。
今年になり6年ぶりにチャゲアスのライブが復活すると発表されました。
アスカさんは昭和の歌謡曲のカバーアルバムを発表しました。
最後にアスカさんは17才の時に聞いた「木綿のハンカチーフ」を生演奏で歌いました。僕は題名は聞いた事はありますが実際に聞くのは初めてでした。若い男女が都会に行った事で離ればなれになる青春の物悲しさを歌った心に響くような曲でした。
番組はあっという間に30分が終了してしまいましたが見て良かった番組でした。これからの活躍から目が離せなくなったアスカさんですがチャゲアスが復活する事で80年代に青春を過ごした方がチャゲアスさんの歌で癒される事を願いつつ素晴らしい歌を世に出してくれる事を願っています。
2013年05月12日 Posted by プラネマン at 13:55 │Comments(0) │歌番組テレビ放送
NHK SONGS ウィーン少年合唱団

ウィーン少年合唱団は1955年に初来日して60年代には少女雑誌などに登場して大ブームを作ったそうです。
まず12才の少年がウィーンを案内しました。ウィーンで有名なザッハトルテというお菓子を食べながらティータイムをしてモーツァルトの住んでいた家を訪ねシュテハン大聖堂に行きました。そして王宮礼拝堂の日曜ミサでウィーン少年合唱団が歌いました。
ウィーン少年合唱団は1498年創立で500年を超える歴史があります。かつてはモーツァルト、シューベルト、ハイドンも在籍しました。戦争などで運営が厳しい時代もあったようですが1924年に民営化で復活したそうです。
現在は10才〜14才の変声期前の少年がおよそ100人在籍、世界33ヶ国の国や地域から集まっているそうです。モーツァルトなどかつて在籍した音楽家の名前を使った4つのクラスに分かれ全寮制の規則正しい生活をしているそうです。
日本から来た少年も在籍していました。11才のユウ君は日本からやってきてまだ3ヶ月、慣れないドイツ語に戸惑いながらも楽器も学んでいるそうです。同じく日本から来たマサヤ君は5年前に親元を離れウィーンにやって来ました。21時15分に消灯、6時45分起床の規則正しい生活をしていてルームメートは4人、インタビューを聞くとしっかりしていて好感がもてました。
マサヤ君やユウ君たちが在籍出来るのは変声期前の僅かの間でその後音楽の道に進めるのは1/4ほどでメンバーは常に入れ替わっているそうです。
ウィーン少年合唱団の皆様が「美しき青きドナウ」を歌いました。
今年4月にウィーン少年合唱団は27回目の来日をしました。初来日は大反響があったそうです。初来日の時のメンバーが登場しました。彼は退団後は地理の先生になり現在68才、当時の盛り上がりや思い出を熱く語っていました。
1960年代には少女雑誌がウィーン少年合唱団の特集を組みました。その雑誌を見てファンレターを送った民子さんという日本人女性がいました。
日本から来るファンレターは切手が綺麗で人気があり取り合いになったそうです。実際には力の強い上級生が力ずくで奪っていたようですが民子さんのファンレターをもらった団員と民子さんの文通が始まりました。文通は6年になりましたがその頃民子さんの両親が相次いで亡くなる不幸がありました。団員の父親が民子さんのウィーン留学を援助してその後民子さん21才、団員が19才で結婚、今でも仲が良く羨ましくなりました。
元団員たちのエピソードを交えながらウィーン少年合唱団の皆様が「ふるさと」を日本語で歌いました。
2011年に東日本大震災があった時にウィーン少年合唱団はチャリティーコンサートを行ったそうです。4組が同じステージに立つのは初めてでした。
最後に日本語で復興支援ソング「花は咲く」を歌いあっという間の30分が終わりました。日本とウィーン少年合唱団の深い絆を感じました。ウィーン少年合唱団の皆様のこれからの活躍を願っています。